日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

読売新聞の本文活字は明治42年1月1日から大正6年2月末まで「都式活字」基調だが明治42年2月からは築地9ポ半が乱雑混植されていた(ので都式活字は9.5ポイントで間違いない)

「早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」で予告した、「都式活字」と築地9ポ半明朝活字の乱雑混植について、項を改めてここに記しておきます。

上述記事の明治43年原紙に関する注釈で、本文の基本活字が「都式活字」であることと、そこに築地9ポ半が乱雑混植状態になっていることに触れました。

明治43年12月14日付『読売新聞』1面(部分)

1面冒頭、「た」「に」「り」「る」など幾つかの仮名において、少なくとも2種類の書体が混ざっている状態であることがご覧いただけるでしょう。

『明治・大正・昭和の読売新聞CD-ROM』でざっくり目視――朝刊1・2面をプリントアウト確認――した感触では、どうやら明治42年2月27日から少なくとも平仮名「り」「る」で築地9ポ半活字の乱雑混植が始まっているようです。

明治43年12月14日朝刊1面で使われている仮名を一通り拾い出してみたところ、非常に多くの字種で乱雑混植状態でした。

明治43年12月14日『読売新聞』朝刊1面で使われている仮名

「に」だけ3種類の活字が使われていますが、これは「都式活字」A型仮名とB型仮名、そして築地9ポ半という、珍しい組み合わせになってしまったもののようです「『都新聞』と同附録『都の華』に見える「都式活字」A型仮名とB型仮名、そして松藤善勝堂が1910年代に印刷した雑誌・書籍に見えるABブレンド型仮名」

この頃の『都新聞』『読売新聞』紙面によって、「都式活字(都式新活字)の大きさを9ポイント7分5厘(9.75pt)ではなく9ポ半(9.5pt)相当と判断する理由」の大きな判断基準がひとつ増えました。「9ポ半相当」という少し含みのある表現ではなく、9ポ半と言い切ってもよいでしょう。

なお、『明治・大正・昭和の読売新聞CD-ROM』でざっくり目視した感触では、どうやら大正6年2月27日まで都式メインの本文活字に築地9半ポを混ぜるという状態だった本文活字が、2月28日のみ築地メインになっていました。翌日(大正6年3月1日)から9ポ仮名付活字に切り替えたと見られる読売で、なぜたった1日だけ築地9ポ半メインの紙面を組んだのか、そのあたりの事情は全く解りません。

早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…

野村宗十郎「日本に於けるポイントシステム」で「其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた」と書かれているうち、読売新聞の本文活字には読売の社史に出ていない興味深い歴史があったので、整理してみます。

紙の本としては最新版となる『読売新聞140年史』(読売新聞グループ本社、2015年)が新聞活字の変遷に無関心なところは残念なのですが、『読売新聞百年史 資料・年表』(読売新聞社、1976年)65頁「読売新聞の活字・段数・字詰・行数・建ページの変遷」https://dl.ndl.go.jp/pid/12277857/1/75というフォーマットはとても素晴らしいです。フォーマットは素晴らしいのですが、今回話題にするドラマの舞台である明治391906年から大正71918年までの期間について、「変遷」表に書かれている内容に不審な点があります。

『明治・大正・昭和の読売新聞CD-ROM』で当時の紙面を追って得た情報と、先日入手できた明治41年11月6日付原紙と明治43年12月14日付原紙を計って得た情報に基づき、『読売新聞八十年史』(読売新聞社、1955、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/2999984/1/389)や『読売新聞百年史 本編』(読売新聞社、1976年、NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277856/1/244)で等閑視されている情報を補い、また明らかな誤りと思われる点を正してみます。

当初のタイトルは「早々と明治39年5月から築地9pt活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」でしたが、すぐに「早々と明治39年5月から築地9ポイント活字を用いた読売新聞は「字が小さすぎる」苦情への対応として築地10ポ・9ポ半明朝活字を採用せず明治42年正月から都式活字へ乗り換えるが…」へと改めました。

1行19字詰め1頁7段組み期の本文活字

「百年史」では明治34年が10.5ポイント(五号)、明治35年から39年5月6日まで10.0ポイントとされていますが、一貫して築地五号が本文活字に用いられていたようです。

1行19字詰め1頁8段組み期の本文活字

「百年史」では明治39年5月7日から41年末まで10.0ポイントとされていますが、この期間は築地9ポイントが本文活字に用いられていたようです。

明治41年11月6日付『読売新聞』1面

1行18字詰め1頁8段組み期の本文活字

「百年史」では明治42年1月1日から大正3年4月2日まで9.5ポイントとされており、確かに活字サイズは9.5ポイントなのですが、本文の基本活字として採用されたのが「都式活字」であったことは特記しておきたいところです。より詳しくいうと、「『都新聞』と同附録『都の華』に見える「都式活字」A型仮名とB型仮名、そして松藤善勝堂が1910年代に印刷した雑誌・書籍に見えるABブレンド型仮名」に記したところの「ABブレンド型仮名」書風のものであるようです。

明治43年12月14日付『読売新聞』1面

1行16字詰め1頁9段組み期の本文活字

「百年史」では大正3年4月3日から大正6年2月28日まで9.0ポイントとされていますが、前期に引き続いて本文の基本活字は「都式活字」です。なお、『読売新聞』本文の基本活字として「都式活字」が使われていた時期の詳細――明治43年の原紙に関する下表の注釈で軽く触れている「乱雑混植」の状況――について補足する記事を、近日公開する予定です。

1行17字詰め1頁9段組み期の本文活字

「百年史」では8.5ポイントとされていますが、「9.0ポイント仮名付」ではないかと疑っています。「仮名付」とは「ルビ付き活字」などとも呼ばれ、親文字1文字に対して3文字分の扁平な振り仮名が鋳込まれている場合があるといった特徴が見られます。

1行16字詰め1頁10段組み期の本文活字

「百年史」では8.5ポイントとされていますが、「9.0ポイント仮名付」なのか「8.5ポイント仮名付」なのか、『明治・大正・昭和の読売新聞CD-ROM』の紙面イメージからは判断できませんでした。「9.0ポイント仮名付」であった場合の「長手字数」×9.0pt=1440ptという値がブランケット判のサイズとしては大きすぎる感があるので、「8.5ポイント仮名付」と考えておきます。

1行15字詰め1頁11段組み期の本文活字

前の期と同様です。

明治391906年から大正71918年までの「読売新聞の活字・段数・字詰・行数・建ページの変遷」

百年史「読売新聞の活字・段数・字詰・行数・建ページの変遷」より内田補記
年次活字段数字詰備考 活字段数字詰長手字数備考
明治3410.5622 築地五号622132字
1394ポ
*1
10.571910月1日から 築地五号719133字
1404ポ
*2
3510.07193月1日から 築地五号719133字
1404ポ
*3 *4
3610.0719 築地五号719133字
1404ポ
*5
3710.0719 築地五号719133字
1404ポ
3810.0719 築地五号719133字
1404ポ
3910.08195月7日から 新活字も同日 築地9ポ819152字
1368ポ
*6 *7 *8
4010.0819 築地9ポ819152字
1368ポ
4110.0819 築地9ポ819152字
1368ポ
*9
429.58181月1日から 都式(9.5)818144字
1368ポ
*10 *11 *12 *13 *14
439.5818 都式(9.5)818144字
1368ポ
*15
449.5818 都式(9.5)818144字
1368ポ
M45/T19.5818 都式(9.5)818144字
1368ポ
29.5818 都式(9.5)818144字
1368ポ
39.09164月3日から 都式(9.5)916144字
1368ポ
*16 *17
49.0916 都式(9.5)916144字
1368ポ
59.0916 都式(9.5)916144字
1368ポ
68.59173月1日から 築地9ポ仮名付(?)917153字
1377ポ(?)
*18
8.510169月16日から 築地8ポ半仮名付(?)1016160字
1360ポ(?)
*19
78.511157月1日から 築地8ポ半仮名付(?)1115165字
1402.5ポ(?)
*20

*1:当時の築地五号は3.69mm角(10.5pt)ではなく3.71mm角(約10.56ポ)でした。132字×10.5ptなら1386ptですが、約10.56ptとして計算した結果1394ptとしました。

*2:133字×10.5ptなら1396.5ptですが、約10.56ptとして計算した結果1404ptとしました。

*3:築地活版が自社製和文ポイント活字の実物を社外に公表したのが明治36年の第五回内国勧業博覧会のことになります。明治35年から10ポイントを採用する理由がありません。築地10ポの最も早い採用例はおそらく明治41年9月の毎日電報になります明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―②毎日電報の事例

*4:明治35年2月の紙面と3月の紙面を見比べると、どちらも「築地体前期五号」活字によって刷られていて、体裁上の違いは見当たりません。題字も従来のものがそのまま引き継がれています。28日付朝刊1面社告「面目一新紙面改良明三月一日より」が示しているのは「80年史」第五章六「紙面の行詰り―派閥の発生」(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/2999984/1/138が記している主筆交代劇とそれに伴う編集方針の刷新であって、使用活字等にはかかわりのないことでしょう。

*5:明治36年12月13日付朝刊の本文活字は「築地体後期五号」になっていますから、明治35年3月2日から明治36年12月12日までの期間のどこかのタイミングで使用活字の交代が起きているはずですが、未確認です。なお、築地活版が前期五号から後期五号へと書体のモデルチェンジを刊行したのは明治31年版五号総数見本発行の頃でした。「明治31年築地体後期五号仮名のはじまり」

*6:明治39年4月22日付朝刊1面からしばらく「五月一日より活字改良」の社告あり。6頁の紙幅で7頁分の情報量という趣旨を主張。本文19字詰め7段組み、築地系五号活字。

*7:明治39年5月1日付朝刊1面から5日まで「新活字は五月七日より」社告あり、6日付朝刊2面では「新活字は明日より」の社告。

*8:明治39年5月7日付の紙面より本文19字詰め8段組み、築地9ポイント活字使用開始。

*9:手元にある明治41年11月6日付『読売新聞』原紙により実測、本文築地9ポイント明朝活字、1行19字詰め・1頁8段組み。

*10:『都之華』ほか各種「当時物」の計測から、私は「都式活字」を9.75ポではなく9.5ポと考えています。「都式活字(都式新活字)の大きさを9ポイント7分5厘(9.75pt)ではなく9ポ半(9.5pt)相当と判断する理由」

*11:「百年史」本文「「銀座三層楼」に改築、新輪転機を購入」」の項に、明治41年8月25日付社告で発表された紙面の改革内容7点が列記され、このうちのひとつが「活字改良」であることが示されています〈234頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277856/1/244。年表でも簡単にしか触れられていません〈232頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277857/1/232。この「活字改良」の内容は、同日付朝刊1面「本紙の大改革」社告において「活字はドウなる乎」と題して「現今使用しつつある活字はほそきに失して読み憎きの非難あれば読易き活字に改むる事とし九月一日より実行す」と予告されていました。

*12:その明治41年9月1日付朝刊1面の「紙面大改革に付社告」では「目下急速力にて諸事進行中に候へば日々進歩しつゝ今より二ヶ月の後には何事も完備するに至るべく」云々と書かれています。

*13:明治41年12月30日付朝刊1面の社告「新年以降の本紙」になってようやく「新活字も亦既に出来して一月一日の紙上より之を使用することとなり」という告知になりました。

*14:明治42年1月1日付の紙面より本文18字詰め8段組み、都式活字使用開始。

*15:手元にある明治43年12月14日付『読売新聞』原紙により実測、本文は都式活字を基本としつつ一部に築地9ポ半を乱雑混植の状態、1行18字詰め・1頁8段組み。

*16:大正3年3月31日付朝刊2面の社告で「来る四月三日より紙面を八頁に拡張すると共に紙面の体裁」を「一頁九段」「一段 現在の五号活字一行十六字詰百五行」にすると示されています。

*17:4月3日以降の本文活字は予告通り都式活字(「現在の五号活字」)で特に変わりはありません。

*18:大正6年2月23日から連日「新活字の使用」「来三月一日より」という社告が掲載されています。曰く「記事増加し紙面狭隘を感ずるに至りたるに由り弊社は来る三月一日より活字を改めて最新ポイント式活字を使用することとなしたり」。

*19:9月15日付朝刊2面に「本紙々面改正に付広告字詰並に段数来る十六日より左記の通り改正致候」という社告が掲載され、翌9月16日付の紙面から本文16字詰め10段組みになっています。

*20:見落としでなければ、予告の類が発せられないまま7月1日付の紙面より本文15字詰め11段組に切り替わっています。

「大阪毎日新聞」に見える東京築地活版製造所の9ポ・8ポ半明朝活字

これもまた「「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」と東京築地活版製造所の10ポ・9ポ半明朝活字」に続いて、またまた、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する、築地活版の初期ポイント活字の話です。

5月の記事「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」の後半、「仮称「前期9ポイント仮名」と仮称「後期9ポイント仮名」」の項に記した通り、築地活版の9ポイント明朝活字については明治39年版『九ポイント明朝総數見本 全』(印刷図書館蔵)と、昭和4年版『九ポイント活字総數見本 全 昭和四年五月改正』(横浜市歴史博物館小宮山博史コレクション)という2つの総数見本が知られています。

一方、9.5ポイントや8.5ポイントの活字見本は『改正定価表各書体見本』(「大正7年2月24日改正」:印刷図書館蔵 Za335、および「大正9年3月10日」:印刷図書館蔵 Za341)に掲載されている部分的なものしか手がかりが無い――少なくとも現時点で私は記憶にない――状態です。

(9月18日追記:桑山書体デザイン室KD文庫に、東京築地活版製造所『大正五年六月改正 新聞用 九ポイント半(小型五號)總數見本 全』があり、また同じく『昭和二年四月改正 八ポイント半活字總數見本 全』が蔵されていることを、まるっきり失念していました。)

『改正定価表各書体見本』(印刷図書館蔵)より「仮名付活字」見本部分

16字ベタ組の「九ポイント仮名付」と17字ベタ組の「八ポイント半仮名付」がほぼ同じ行長になっているので、表題通りの活字ボディーに鋳込まれているようですが、例示されている仮名の種字・母型は同じものなのではないかという風に見えます。

実際のところはどうだったのでしょう。

大正3年10月22日付『大阪毎日新聞』原紙の本文9.0pt明朝活字のひらがなと、大正6年11月13日付『大阪毎日新聞』原紙の本文8.5pt明朝活字のひらがなを、拾い出してみましょう。

大正3年10月22日付『大阪毎日新聞』原紙と大正6年11月13日付『大阪毎日新聞』原紙(部分・重ね合わせ)
大正3年10月22日付『大阪毎日新聞』に見える築地9ポ明朝ひらがな

大正3年10月22日付『大阪毎日新聞』原紙の本文9.0pt明朝活字のひらがなは、明治39年版『九ポイント明朝総數見本 全』(印刷図書館蔵)に見える「前期9ポイント仮名」と言って良いようです。

大正6年11月13日付『大阪毎日新聞』に見える築地8ポ半明朝ひらがな

9ポイントと見比べると、「あ」「か」「な」のように、原寸で見比べれば、やや縦長の9ポと比較的扁平な8ポ半――という違いが見える字種があるほか、「そ」「た」「の」のように原寸でも判別が難しい字種、これらが大半を占め、印刷コンディションが万全であればマイクロ資料でも識別できる(現時点で)唯一の字種が「う」ということになりそうです。

参考に、同一縮尺で拡大した築地10ポ、9ポ半、9ポ、8ポ半で「あなたのうそ」という文字列を並べてみます(文字の周囲は各々の活字ボディーに相当する大きさで切り抜いたもの。文字の並べ方はすべて中心間隔10ポイント。)

『大阪毎日新聞』に見える築地10ポ、9ポ半、9ポ、8ポ半のひらがな見本

明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―②毎日電報の事例

明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探ってみようという試みの1紙目として、『毎日電報』を取り上げてみます。

明治42年版『新聞名鑑』では1行18字詰め・1頁8段組みとされておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/55、これは本文9.5ptまたは10.0pt活字の段制です「明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―①ブランケット判の段数・字数と活字サイズ」

本文9.5pt活字なのか10.0pt活字なのか、『新聞名鑑』の段制情報だけでは判断できません。

『毎日電報』は、明治41年11月3日付『大阪毎日新聞』3面掲載の築地活版による「祝紙面改良」広告で「大ママ毎日新聞、毎日電報、名古屋新聞紙面其他雑誌ニ於テ御使用ノ榮ヲ蒙」っていると言及された、築地10テンポイント明朝早期採用紙のひとつでした「「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」と東京築地活版製造所の10ポ・9ポ半明朝活字」

明治42年版『新聞名鑑』の時点では本文が10ポイント活字だったものと考えて良いでしょう。

国会図書館の遠隔複写でマイクロフィルムの紙焼きを取得してみたところ、次のようになっていました。

  • 明治41年12月1日付:1行18字詰め・1頁8段組み、本文築地10ポイント活字
  • 明治41年9月1日付:1行18字詰め・1頁8段組み、本文築地10ポイント活字(「見よ!! 本日より毎電式新活字」)
  • 明治41年6月1日付:1行19字詰め・1頁7段組み、本文築地五号活字
  • 明治41年3月1日付:1行19字詰め・1頁7段組み、本文築地五号活字
  • 明治40年12月1日付:1行19字詰め・1頁7段組み、本文築地五号活字(「一周年記念号」)
明治41年6月1日付『毎日電報』1面(国会図書館マイクロフィルムからの紙焼き))
明治41年9月1日付『毎日電報』1面(国会図書館マイクロフィルムからの紙焼き)

『毎日電報』は明治44年に『東京日日新聞』と合同し3月1日付で大阪毎日新聞社の傘下となりますが(『毎日新聞百年史』359頁:https://dl.ndl.go.jp/pid/12277848/1/383、大毎に2か月ほど先駆けて本文活字を築地五号から築地10ポイントに切り替えていた――という「百年史」に見えない事実を見出すことになりました。

明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―①ブランケット判の段数・字数と活字サイズ

今回も「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する築地活版の初期ポイント活字の話です。

当初は「明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地9ポイント活字の初期採用紙を探る―①ブランケット判の段数・字数と活字サイズ」というタイトルで公開しましたが、すぐに「明治42年版『新聞名鑑』を手掛かりに築地初期ポイント活字の早期採用紙を探る―①ブランケット判の段数・字数と活字サイズ」へと改めました。

「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」で触れた野村宗十郎「日本に於けるポイントシステム」(日本電報通信社編『新聞総覧』〈日本電報通信社、大正4年〉)中の「先づ新聞に採用」という項https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/425で中央新聞による採用の後に「函館毎日、大阪毎日、鹿兒島新聞其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた。」と記されていた「其他十數種」の新聞が具体的にどのようなものだったか。

明治42年版『新聞名鑑』(日本電報通信社)の「全国新聞一覧表」https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/45に示されている情報のうち、基本活字に「ポイント」の語句を用いているのは、東京二六新聞「ポイント」(1行17字・1頁9段)・毎日電報「毎電式ポイント」(1行18字・1頁8段)https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/46、函館毎日新聞「ポイント式」(1行19字・1頁8段)・北海旭新聞「九ポイント」(1行19字・1頁8段)https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/65の4紙になります。

他に何か手がかりは無いでしょうか。

この時点で邦字新聞に使われていた本文活字は、従来からの五号活字(10.5ポイント相当)、10.0ポイント、9.5ポイント、9.0ポイント、「都式活字」、「(萬朝報)廿世紀式活字」の6種類でした。一般紙が採用しているブランケット判の1ページは縦545mm×横406mmですから、1行文字数と1頁段数(段制)が判れば、本文活字サイズについてのおよその見当がつけられるのではないか。

――というわけで、明治42年版『新聞名鑑』の「全国新聞一覧表」https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/45に示されている「活字種類字詰行数段数」の情報から、7段組ではない体裁の代表例を見ていきましょう。

1行19字・1頁8段(長手方向152字)の場合:9.0ptと推定

本文活字を明確に9ポイントであるとしている北海旭新聞の長辺の文字数は19字×8段=152字なので、長手方向は文字の分だけで1368ポイント(約481mm)。段間が0.5字分で天地の罫も各々0.5字分と仮定すると、その合計が40.5ポイント(約14mm)となり、天地の罫の間隔が495mm程度。天マージン内に日付や紙名などが記載される柱のスペースを5mm程度と見込んでおくと、「総版面」は500mm程度ということになります。

もし仮にこの段制(1行19字・1頁8段)で本文活字サイズが9.5ポイントだった場合、同じような組み方を前提にすると天地の罫の間隔が{152字+(9箇所×0.5字分=4.5字)}×9.5pt=1486.75pt(≒522.5mm)となり、これだけでブランケット判の印刷可能領域の目一杯という具合。天マージンに日付や紙名を載せる余裕がありません。

明治38年、日本で最初に9ポイント活字を本文に採用した中央新聞も1行19字・1頁8段(長手方向152字)でしたから、本文9ポイント活字組のこの時期の新聞の標準的な段制だったと考えて良いでしょう。

同じ段制となっている明治41年11月6日付『読売新聞』原紙が手元にあるので計ってみたところ、天地の罫の間隔は490mmでした。

明治41年11月6日付『読売新聞』1面

1行18字・1頁8段(長手方向144字)の場合:9.5ptまたは都式活字と推定(10.0ptを「例外的」と考えて良いかどうか未詳)

毎日電報の段制として記されている1行18字・1頁8段(長手方向144字)で、本文活字サイズが9.0ポイントだった場合に同じような組み方を前提にするとどうなるか。天地の罫の間隔が{144字+(9箇所×0.5字分=4.5字)}×9.0pt=1336.5pt(≒470mm)となり、天地のマージンがずいぶん広いということになります。

本文活字サイズが9.5ポイントで他が同様の場合、天地の罫の間隔が{144字+(9箇所×0.5字分=4.5字)}×9.5pt=1410.75pt(≒496mm)となり、北海旭新聞の想定版面とほぼ同じ寸法になっていると判ります。

明治42年版『新聞名鑑』の「全国新聞一覧表」https://dl.ndl.go.jp/pid/897421/1/45には都新聞の段制も1行18字・1頁8段(長手方向144字)と記されています。仮に巷説の通り都式活字が9.75ポイントであったとすると、天地の罫の間隔が{144字+(9箇所×0.5字分=4.5字)}×9.75pt=1447.875pt(≒509mm)。

『書物学』15巻に、東京築地活版製造所が明治42年2月11日付東京日日新聞に掲載した「祝紙面改良」広告を図示した通り、本文9.5ポイント活字組のこの時期の新聞の標準的な段制が1行18字・1頁8段(長手方向144字)だったと考えて良いでしょう。手元にある明治44年4月6日付『大阪毎日新聞』原紙は大きく破損しているため正確な寸法ではないかもしれませんが、天地の罫の間隔は488mmでした。

明治44年4月6日付『大阪毎日新聞』1面

段間を0.5字ではなく0.25字とすると、天地の罫の間隔は{144字+(9箇所×0.25字分=2.25字)}×9.5pt=1389.375pt(≒488.2mm)ですから、明治44年4月6日付『大阪毎日新聞』原紙は、ほぼ伸縮等の影響を無視してよい計算通りの寸法と考えてよいのでしょう。

――と言いたいところなのですが。

本文活字が10.0ポイントで段間が0.5字という前提のままであれば、天地の罫の間隔が{144字+(9箇所×0.5字分=4.5字)}×10.0pt=1485pt(≒522mm)となりブランケット判の印刷可能領域の目一杯となるため天マージンに日付や紙名を載せる余裕がありません。

実は明治41年11月3日から築地10ポイント明朝活字を本文に使いはじめた大阪毎日新聞の紙面を見ると、段間を0.25字程度とした1行18字・1頁8段(長手方向144字)の段制となっており、計算上は天地の罫の間隔が{144字+(9箇所×0.25字分=2.25字)}×10.0pt=1462.5pt(≒514mm)。ちなみに手元にある明治42年2月の大阪毎日新聞原紙を計ってみると天地の罫の間隔は514mmでした。

明治42年2月7日付『大阪毎日新聞』11面

1行18字・1頁8段(長手方向144字)の場合、本文9.5ポイントまたは10.0ポイント活字のどちらかだ、――としておかざるを得ない感じです。

1行17字・1頁9段(長手方向153字)の場合:9.0ptと推定

本文活字を「ポイント」とだけ記している東京二六新聞の場合、本文活字が9.0ポイントであれば天地の罫の間隔が{153字+(10箇所×0.5字分=5.0字)}×9.0pt=1422pt(≒500mm)となり、北海旭新聞の想定版面より5mmほど大きい寸法になっていると判ります。

この段制で本文活字が9.5ポイントだった場合は天地の罫の間隔が{153字+(10箇所×0.5字分=5.0字)}×9.5pt=1501pt(≒527mm)となり、これもブランケット判の印刷可能領域の目一杯か超えているかという具合。

仮に本文活字が10.0ポイントの場合なら、天地の罫の間隔が{153字+(10箇所×0.5字分=5.0字)}×10.0pt=1580pt(≒555mm)となり、ブランケット判に収まりません。

大正3年10月22日付『大阪毎日新聞』は1行17字・1頁9段(長手方向153字)という紙面になっており、手元にある原紙を計ってみると天地の罫の間隔は497mmでした

大正3年10月22日付『大阪毎日新聞』1面

この時期のブランケット判新聞であれば、1段あたりの文字詰め(1行あたりの文字数)と1ページあたりの段数を手掛かりにして本文活字サイズを推定することができそうです。

  • 1行19字・1頁8段(長手方向152字)の場合:本文9.0pt
  • 1行17字・1頁9段(長手方向153字)の場合:本文9.0pt

1行18字・1頁8段(長手方向144字)の場合に関しても、もし天地罫の間隔が測定または推定できるなら、天地罫間が49cm程度だった場合は本文9.5pt、天地罫間が51cm程度だった場合は本文10.0ptと言ってよいでしょう。

「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」と東京築地活版製造所の10ポ・9ポ半明朝活字

またまた、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」を補足する、築地活版の初期ポイント活字の話です。5月に記した「東京築地活版製造所の12ポイント明朝活字と写研の石井中明朝MM-A-OKS」などと併せてお読みいただければ幸い。

9月4日付で公開した記事に、9月15日付で、10ポイント仮名の概要図と、「都式活字」と築地9ポ半の比較図、そして関連する文言を追加しました。

さて、「中央新聞が明治38年に本文活字として採用した東京築地活版製造所の9ポイント明朝活字」で示した通り、東京築地活版製造所第4代社長の野村宗十郎は、『印刷世界』9巻6号(大正41915年6月)に掲載された「日本に於けるポイントシステム」(後に大正元年版『新聞総覧』〈日本電報通信社、大正4年〉に転載)の「先に新聞に採用」と題する項において、次のように記しています(『新聞総覧』54-55頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2387636/1/425)。

其後中央新聞の大岡力氏が弊社に來られて、九ポイント活字を見、之れだけで新聞を作らう、さうしたら新聞も美しく記事も豐富になるだらうといふので、採用される亊になつて九ポイント活字を七八千種製造して供給した。これは新聞紙に用ひられた嚆矢で其後函館毎日、大阪毎日、鹿兒島新聞其他十數種の新聞に九ポイントは採用されたが、何うも小さくて見にくいといふ非難があつた。

中央新聞が築地9ptを採用したのは、明治39年12月という通説とは違って実際には明治38年のことでした。大阪毎日新聞(と東京日日新聞)が築地9ptを採用したのは大正3年4月です。

残念ながら函館毎日新聞は肝心な期間の資料が見当たらず、鹿児島新聞は『南日本新聞百年志』の記述が誤っているようだということまでしか現時点では判りません(「函館毎日新聞と鹿児島新聞はいつごろ築地9ポイント明朝を本文活字に採用したか」https://uakira.hateblo.jp/entry/2024/05/16/213015

大阪毎日新聞と築地10テンポイント明朝活字

「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で示した通り、明治411908年から大正81919年にかけて、大手各紙は次々と基本活字サイズを変更していました。

毎日新聞七十年』(1952)の「建ページ・活字・定価変遷表」(614-617頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/329では、大阪毎日新聞東京日日新聞の区別が示されないまま、①明治41年11月に旧五号から10ポイントに変更、更に②明治44年1月から9ポ半に変更、とされています。これは「七十年」の表が『大阪毎日新聞社史』(1925)が折々にまとめていた「頁数及字数の増加」(68頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1837928/1/46、80頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/1837928/1/52 等)をひとまとめにしたもの――という成り立ちなのではないかと思われます。

大阪毎日新聞が本文に築地10テンポイント明朝活字を使い始めた明治41年11月3日付の紙面を掲げておきます。マイクロフィルムからの紙焼きですが、これを見ると、従来の「五号活字19字詰め7段組」から「10ポイント活字18字詰め8段組」に切り替わったことが判ります。

明治41年11月3日付『大阪毎日新聞』1面(国会図書館マイクロフィルム紙焼き)

また、同日の3面には築地活版による新活字広告が掲載されていて、「大ママ毎日新聞、毎日電報、名古屋新聞紙面其他雑誌ニ於テ御使用ノ榮ヲ蒙」っているとあります。

明治41年11月3日付『大阪毎日新聞』3面(国会図書館マイクロフィルム紙焼き)

明治42年2月7日付の原紙で確認してみたところ、確かに活字サイズは10ポイントでした。またいわゆる築地体後期五号仮名の書風とよく似た姿を保っており、原寸資料であってもサイズ感に注意しておかないと五号と10ポを誤認してしまいそうです。

明治42年2月7日付『大阪毎日新聞』11面(部分)
明治42年『大阪毎日新聞』連載「妹」から抽出した築地10ポイント明朝ひらがな

東京日日新聞と築地9ポ半明朝活字

毎日新聞百年史』(1972)の「新聞段数建ページ変遷(東京)」(412頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/12277848/1/436においても原紙を再確認せず過去の社史を頼ったためでしょう、①明治41年11月1日に旧五号から10ポイントに変更、②9ポ半を経ず大正3年4月15日から9ポイントに変更、とされています。

実際の東京日日新聞は、「世界史の中の和文号数活字史」(『書物学第15巻 金属活字と近代』〈2019年、勉誠出版 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=18_55&products_id=101002〉)で示した通り、10ポイント活字を経ないまま、明治42年2月11日付で基本活字を旧五号から9ポ半に変更しています。

明治42年2月11日付『東京日日新聞』5面(東北大学附属図書館蔵マイクロフィルム紙焼き

「七十年史」の「建ページ・活字・定価変遷表」(614-617頁 https://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/329に記されている通り、10ポイントでも9半ポでも紙面は「18字詰め8段組」であるため、原紙を当たらない限り、違いを見出すことは難しかったでしょう。

活字書体に注目すると築地10テンポイント明朝活字と築地9ポ半(9.5ポイント)明朝活字の違いは明らかで、また同じ9ポ半ボディーでも都式活字と築地9ポ半の違いもはっきりしています。6月の記事「『都新聞』と同附録『都の華』に見える「都式活字」A型仮名とB型仮名、そして松藤善勝堂が1910年代に印刷した雑誌・書籍に見えるABブレンド型仮名」で作成した都式活字の書風変遷(A型仮名、B型仮名、ABブレンド型)図に、大阪毎日新聞から拾い出した築地9ポ半を並べて見比べることにしましょう。

並べてみると、築地9ポ半は、①一見すると築地体後期五号風である「都式B型」とは全く異なる、9ポイント系の書風になっていること、②漢字の平均字面が9.5ポイントボディーいっぱいに近い都式と比べて、周囲に余裕を持たせた字面になっていること、③漢字の平均字面とひらがなの平均字面の差が小さいこと(都式は差が大きい)――が鮮明に判ります。

都式活字と築地9ポ半明朝の比較

1920年代前半の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)

2年程前の記事「大正中期の新聞における本文系ポイント活字書体の変遷(暫定版)」は記事中にもある通り「年末に刊行される予定の雑誌に向けて執筆中の原稿」、つまり勉誠出版から2022年12月付で刊行された『書物学』第21巻「特集 活字」に掲載していただいた〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉の予備的な作業として手掛けたものでした(参照:「六号雑記」)。

今回は大正後期(≒1920年代前半)の本文書体を追っていき、8ポ・7ポ75から7ポ半への変化を捉えることができるのかどうかに迫ってみたいと思います。

毎日新聞七十年』(1952)614-617頁「建㌻・活字・定価変遷表」に記されている(大阪毎日新聞の)資料によると、大正7年7月から12月まで8ポイント(16字詰め11段組)だった本文活字は、大正8年1月1日から7ポ75(15字詰め12段組)となり、更に大正11年4月4日から昭和3年3月まで7ポ半(15字詰め12段組)だとされています(NDL:https://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/329

7ポ75期の活字は〈「秀英電胎八ポ」書風と「築地新刻電胎八ポ」書風の活字について〉(『書物学』第21巻 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101347)52頁の図7(大正9年2月20日付大毎)をご覧いただくこととし、参考に7ポ半の紙面を掲げておきます。

大正12年1月18日付『大阪毎日新聞』夕刊(1月19日発行)1面(部分)

7ポ75期の本文活字は「築地新刻電胎八ポ」書風で、7ポ半は「秀英電胎八ポ」書風であるように見えますが、『毎日新聞七十年』207-208頁「邦文モノタイプと活字の自家鋳造」によると、大阪毎日新聞社では大正10年に日本タイプライターの前身である日本写字機紹介から邦文モノタイプの試作機を導入し「次いで十一年の初め七台を買入れた。活字自家鋳造の最初であった」ということでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2934030/1/125、「秀英電胎八ポ」書風である7ポ半活字は日本タイプライターの秀英書風母型で自家鋳造された可能性が高いのではないかと思われます。

以下、「大正中期の変遷」と同様に神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫でおよその傾向をつかめるのではないかと期待して探ってみたのですが、肝心の大正11年以降の期間で一部資料の欠落が大きく、微妙な調査結果となってしまいました。

年月大阪毎日東京日日大阪朝日東京朝日中外商業時事新報報知新聞読売新聞萬朝報国民新聞
1920大9年3月 築7.75 *1 築7.75 *2 築地風 *3 秀英風 *4 築8ポ? *5 秀8ポ? *6 秀8ポ? *7 秀8ポ? *8 秀8ポ *9 築8ポ? *10
1920大9年9月 築7.75 *11 築7.75 *12 築地風 *13 秀英風 *14 築8ポ? *15 築地7.75? *16 秀8ポ? *17 秀8ポ? *18 秀8ポ *19 築8ポ? *20
1921大10年3月 築7.75 *21 築7.75 *22 築地風 *23 秀英風 *24 築8ポ? *25 築地7.75? *26 秀8ポ? *27 秀8ポ? *28 秀8ポ *29 築8ポ? *30
1921大10年9月 築7.75 *31 築7.75 *32 築地風 *33 秀英風 *34 築8ポ? *35 築地7.75? *36 秀8ポ? *37 秀8ポ? *38 秀8ポ *39 築8ポ? *40
1922大11年3月 築7.75 *41 築7.75 *42 折衷型? *43 秀英風 *44 築8ポ? *45 築地7.75? *46 秀7.5? *47 N/A N/A 築8ポ? *48
1922大11年9月 秀7.5? *49 秀7.5? *50 折衷型? *51 秀英風 *52 築8ポ? *53 築地7.75? *54 N/A N/A 秀7.5? *55 築8ポ? *56
1923大12年3月 秀7.5? *57 N/A 折衷型? *58 秀英風 *59 築8ポ? *60 築地7.75? *61 N/A N/A N/A 築8ポ? *62
1923大12年9月 秀7.5? *63 N/A 折衷型? *64 折衷型? *65 築8ポ? *66 秀7.5? *67 N/A N/A N/A 築9ポ? *68
1924大13年3月 秀7.5? *69 N/A 折衷型? *70 折衷型? *71 秀7.5? *72 折衷型? *73 N/A N/A N/A 折衷型? *74
1924大13年9月 秀7.5? *75 N/A 折衷型? *76 折衷型? *77 秀7.5? *78 折衷型? *79 N/A N/A N/A 築8ポ? *80

*1:大阪毎日新聞 1920.3.26「輸入為替制限

*2:東京日日新聞 1920.3.22「貨物等級改正

*3:大阪朝日新聞 1920.3.20「浦潮政府の命数 (上・下)

*4:東京朝日新聞 1920.3.3「北京政局動揺

*5:中外商業新報 1920.3.3「北京政局動揺

*6:時事新報 1920.3.4「同盟改訂如何(英国人の所見)

*7:報知新聞 1920.3.2「社会主義の中心が大阪に移る

*8:読売新聞 1920.3.10「満蒙に関する新軍事協定

*9:万朝報 1920.3.12「太平洋の平和

*10:国民新聞 1920.3.9「綿糸調節未定

*11:大阪毎日新聞 1920.9.23「対米廟議決定 : 排日問題解決方法

*12:東京日日新聞 1920.9.4「我が海運策に対する米人の誤解

*13:大阪朝日新聞 1920.9.8「膠着した五倉庫の貨物とビクとも動かぬ三億の貸付金

*14:東京朝日新聞 1920.9.9「糖界混乱内情

*15:中外商業新報 1920.9.10「生糸市場安定策

*16:時事新報 1920.9.9「十五万人を抱擁する逓信省の大組合

*17:報知新聞 1920.9.20「活字の大小はどの限度に

*18:読売新聞 1920.9.7「加州の排日問題

*19:万朝報 1920.9.19「日本の小児の出産率と死亡率

*20:国民新聞 1920.9.「第三次国際労働総会議案

*21:大阪毎日新聞 1921.3.5「銀行又警戒し始む

*22:東京日日新聞 1921.3.20「セ軍の五百万円日本金貨となる

*23:大阪朝日新聞 1921.3.27「神戸印刷工場組合の印刷会社企業内容

*24:東京朝日新聞 1921.3.27「愈握潰=取引所法

*25:中外商業新報 1921.3.29「独逸海運界の現状

*26:時事新報 1921.3.26「広告的外国商品の襲来に不当廉売を取締る

*27:報知新聞 1921.3.11「商大の入学=志願が半減した

*28:読売新聞 1921.3.26「日本の南洋統治に纏わる流言浮説

*29:万朝報 1921.3.9「労働運動の変化

*30:国民新聞 1921.3.22「労働党の台頭と英国政界の将来

*31:大阪毎日新聞 1921.9.1「航空界の革新は量よりも質の問題

*32:東京日日新聞 1921.9.10「米国にも大本教に似た覆面黒衣の結社

*33:大阪朝日新聞 1921.9.7「失業保険法に就て

*34:東京朝日新聞 1921.9.16「小作争議の用意

*35:中外商業新報 1921.9.5「労農政府と共産主義

*36:時事新報 1921.9.18「国際交易所の重役告訴さる

*37:報知新聞 1921.9.16「蚕糸業界の革命時期

*38:読売新聞 1921.9.14「同じ趣味思想で理想郷の建設

*39:万朝報 1921.9.19「欧洲の道路 日本とは雲泥の違い

*40:国民新聞 1921.9.21「人種案は提出せず

*41:大阪毎日新聞 1922.3.31「岸和田の市制実施は多分六月頃であろう

*42:東京日日新聞 1922.3.31「各府県産業状態と平和博の設備

*43:大阪朝日新聞 1922.3.「人を喰った張作霖

*44:東京朝日新聞 1922.3.10「昇格予算総会

*45:中外商業新報 1922.3.25「製紙操短愈撤廃決定

*46:時事新報 1922.3.24「貿易転換容易ならず

*47:報知新聞 1922.3.23「膝詰談判を始めた官業労働代表

*48:国民新聞 1922.3.29「朝鮮人が著る桐生製の織物

*49:大阪毎日新聞 1922.9.1「日露会議は四日開会に決定

*50:東京日日新聞 1922.9.7「愈々窮した米国船舶院

*51:大阪朝日新聞 1922.9.7「満蒙貿易と広島県航路補助問題

*52:東京朝日新聞 1922.9.10「金解禁に衆議決す

*53:中外商業新報 1922.9.1「コール日歩暴騰事情

*54:時事新報 1922.9.20「露国側の策戦と宣伝

*55:万朝報 1922.9.26「文部当局無経綸

*56:国民新聞 1922.9.23「三帝大総長会合

*57:大阪毎日新聞 1923.3.31「パナマ運河の防備に関する安、不安の両説

*58:大阪朝日新聞 1923.3.29「サンチャゴ会議 (上・下)

*59:東京朝日新聞 1923.3.24「修正された瓦斯事業法案と憲革両派の態度

*60:中外商業新報 1923.3.24「満洲財界の整理に伴い注目さるる二問題

*61:時事新報 1923.3.31「図書館から見た世間の読書力

*62:国民新聞 1923.3.20「三大伏魔殿の一東拓の真相も遂に暴露

*63:大阪毎日新聞 1923.9.15「全欧洲に於ける政治的地震

*64:大阪朝日新聞 1923.9.3「大震災と経済界

*65:東京朝日新聞 1923.9.21「横浜市復興案

*66:中外商業新報 1923.9.26「明年度予算の編成方針と順序

*67:時事新報 1923.9.27「会議所震災対策決議

*68:国民新聞 1923.9.22「総ての道は羅馬への大環状道路建設

*69:大阪毎日新聞 1924.3.30「三十年後を想像して出来た神戸都市計画の輪廓

*70:大阪朝日新聞 1924.3.28「露国の対支回答

*71:東京朝日新聞 1924.3.22「東京都制内容

*72:中外商業新報 1924.3.「一千万盾に上らんとした瓜哇糖転売収益画餅に帰す

*73:時事新報 1924.3.15「日露正式交渉批判

*74:国民新聞 1924.3.21「火保金出捐に対する助成金支出の省令

*75:大阪毎日新聞 1924.9.1「大戦の責任無し

*76:大阪朝日新聞 1924.9.7「大株に大穴をあけた島内閣の総辞職

*77:東京朝日新聞 1924.9.14「私設鉄道出願傾向

*78:中外商業新報 1924.9.21「十四年度の歳入見積決定

*79:時事新報 1924.9.1「第五回国際連盟総会九月一日から開会

*80:国民新聞 1924.9.21「米国軍縮案