日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

幕末に池田草庵と松崎慊堂が「明朝」と呼んだ刊本字様

私たちがいま「明朝体」と呼ぶ活字書体(印刷文字の書体・字様)の日本におけるルーツは黄檗萬福寺で天和元年〈1681〉に開版された鉄眼版一切経であると言われていて、この印刷文字書体は日本でかれこれ340年ほど使われています。

天保壬寅年〈1842〉に校訂布字と扉に記され嘉永3年〈1850〉に発行されたと刊記にある錦林王府木活字版『唐鑑』の刊語において、錦林王府に伝わる活字が「仏典字様」と呼ばれ補刻された筆写体活字が「明朝様」と呼ばれているように(https://uakira.hateblo.jp/entry/2021/10/20/085430)、昔から常に「明朝体」あるいは「明朝様」と呼ばれていたわけでは無さそうです。

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大阪府立図書館石崎文庫蔵 錦林王府木活字版『唐鑑』刊語(おおさかeコレクションより)

現代の日本で「明朝体」と呼ばれ、中国で「宋体」と呼ばれるこの字様・書体の印刷文字は、日本で、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ばれるようになったのでしょうか。

小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(グラフィック社、2020)の「明朝体の定着 ―名称と書体」の項には、次のように記されています(254-255頁)。

日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか。調べたいと思っていながらそのままにしています。ここではとりあえず横浜市歴史博物館収蔵本の活字見本帳や販売広告から、おおよその流れを見てみようと思います。

明朝体が書籍・雑誌・新聞を組む主要な活字書体として登場したのは明治初年のことです。東京日日新聞明治8(1875)年9月5日号「雑報」にある本木昌造追悼記事の中に「明朝風」という言葉が使われていますので、これが最初ではないかと勝手に思っているのですが、確証はありません。

活字の話題に限定せずに往時の新聞雑誌の記事・広告を眺めていて私が行き当たったのが、宮武外骨『文明開化・二・広告篇』(半狂堂、1925)で翻刻されている、同じ明治8年の2月9日付郵便報知新聞(第584号)に掲載された文會社の「訳書彫刻等の請負」広告になります(画像は酪農乳業史デジタルアーカイブ https://www.j-milk.jp/digitalarchives/detail/A0585.html より)。中ほどに、次のように記されています。

版下明朝様十行廿字片仮名雑 一葉金十銭
同常体傍仮名付十行廿字仮名雑 同金七銭

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明8文會社「訳書彫刻等の請負」郵便報知新聞広告文(外骨『文明開化』翻刻

明朝様の漢字とカタカナ交りによって版下文字を筆耕する場合20字詰10行を1ページとしてページ単価10銭、常体の漢字(フリガナつき)に平仮名交りの文であれば同じ20字詰10行でページ単価7銭だ、ということのようです。ここで言う「常体」が御家流なのか楷書系なのかは分かりませんけれども筆写体を指していることに間違いないでしょうから、「明朝様」は今の私たちの感覚で言う明朝体系統の版刻書体(刊本字様)を示しているものと思います。この文會社が同時期に携わったであろう仕事の痕跡を見つけて答え合わせが出来れば嬉しいのですが、今のところは判りません。

産業化に成功する鋳造式近代明朝活字が日本の歴史に登場するのは明治初年のことですが、私たちが明朝体と呼ぶような字様の印刷文字が仏典以外の書籍でも使われるようになるのは藩政時代のことだったようです。本木昌造らの活動よりも古い時期から印刷出版に携わっていた人々の間で、「明朝」という言葉が私たちの思う明朝体の刊本字様・版刻書体を指し示す言葉として使われていた可能性がありそうに思えます。
そこで、以下では、幕末に整板本や木活字本として学術出版を行っていた漢学者たちの活動に目を向けてみましょう。


朱子學大系第14巻「幕末維新朱子學者書簡集」』(明德出版社、1975)の「楠本碩水書簡」の項に、佐々謙三郎(=楠本碩水:1832生-1916没)と池田禎蔵(=池田草庵:1813生-1878没)とのやりとりが収められていて、碩水から草庵あてが180-230頁に、また草庵から碩水にあてたものが245-335頁にまとめられています。
その中には、碩水が企図した『康齋先生日録』出版について二人の間で交わされた書簡群が含まれていました。
「書簡集」の掲載内容をつぶさに見ていくと、碩水から草庵宛、草庵から碩水宛、どちらも必ずしも古いものから新しいものへと順番通りに並んでいるわけではなく、また註が付された年号が誤っているものもあるようですが、今回注目したやりとりについては翻刻されている手紙文の内容から概ね往復の順を正確に辿ることができたと思います。

康斎日録出版に関連するやりとりの中に、興味深い一文が出現していました。
以下、「書簡集」翻刻原文中の漢字を適宜通用字体に改めて引用しながら記します(訓点省略)。

碩水から草庵あての最初の書簡は「文久甲子正月望日」に記されています。この文久甲子つまり文久4年〈1864〉1月15日付の書簡(180-181頁)で碩水は、自分たちが活版(木活字)で呉康斎の日録を出版し広めたいと考えていて、ついては草庵に序文を認めて欲しいと申し入れています。
これに対する元治元年〈1864〉4月13日付の返信で草庵は、康斎日録への序文を送るとともに、部数が限られる活版(木活字)ではなく整板本にしてはどうかと提案しています(248-253頁)。

同年5月念五日(25日)の草庵あて書簡(207-209頁)で碩水は「康斎先生日録序文奉願候処、早速御出来被下置、千萬奉拝謝候」と序文への礼を述べ、「当所へ活版所持仕居候処、とんと不用に相成居申候間、幸之事ニ奉存」ていたが、整板にせよとの薦めをもっともであると思う、しかし江都への出版届が手間取ることでもあるので、櫻谿書院の同志で活版(木活字)とする可能性も留保しておきたい、ともあれ河内屋で整板の相談をするつもり、というような返事を書いています。
河内屋というのは大阪の書肆で、他の書簡で「河茂」などと書かれているのはこの河内屋茂兵衛を指すようです。

同年かと思われる11月15日付の草庵あて書簡(196-198頁)で碩水は「康斎日録之義、河内屋より整板ニ致し度申越候」と報告し、点付に手間取っている旨、また後日添削して欲しい旨を記しています(197頁)。

その後何度かやり取りを経て、慶応2年〈1866〉4月朔(1日)発信の碩水あて書簡(313-314頁)で草庵は、碩水・河内屋が準備した清書本を「一応拝見いたし候処、元来此本原本脱誤多く存申候。因而今般又細々点検申候処、段々如何奉存候処も多く、因而委細書付ケ又一応入貴覧」云々と、別添の諸注意書きを参考に再校訂して欲しいと記しています。

今回注目したのが315-321頁に翻刻されている、上記別添諸注意書(慶応2年丙寅5月21日領手)の冒頭、日録序文の訂正事項を述べた後、日録本文の添削事項の前に書かれている一文です。

板ハ文字明朝様が冝敷奉存候如何。」と書かれているのです(315頁、強調は引用者)。今様の言葉にするなら〈板刻する文字書体は「明朝体」が良いと思うがどうだろうか〉という草庵の意見、に見えます。

これに対する碩水の返信は「六月朔」(6月1日)発(213-215頁)。詳細な添削について「康斎日録写本呈覧仕候処、細々御点検被成下置千萬奉拝謝候」と感謝を述べ、「当所ニ而も又々校訂、此節河茂方え送リ遣シ申候」としたものの、「幕府ニ願出不申候而ハ上木も相叶不申旨ニ付、少シ手間取り可申相考候」と出版の許可申請に手間取っていることを記しています。この後原本の不備に関する嘆き等が書かれているのですが、板下の字様(書体)に関する言及は見えません。

結局藩政時代に出版まで漕ぎつけることが出来なかった『康斎先生日録』は、河内屋茂兵衛らを版元として、明治3年(1870)に上梓されました。同書は九州大学図書館に碩水文庫本として蔵されており(http://hdl.handle.net/2324/1001167727)、また慶應大学本はGoogle Booksとしてデジタル化されているのを見ることができます(https://books.google.co.jp/books?id=B2Uwc1cQvdQC)。

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Google Booksより慶応大学本『康斎先生日録』序文(見開きとして再構成)

Google Booksで見る限り、本文もこの序文同様の筆写体で板刻されているようです。

「書簡集」270-273頁に、上木された『康斎先生日録』を手にした草庵が碩水にあてて書き送った明治3年7月24日付書簡があり、草庵の目からは再校訂が不十分なままの本文で、また字様も好ましくない版であることを受けて、「板本字画も粗脱多く、全体字か細クテ立派ニ無之、折角御見立ニテ被成処好本ニハ相成リ不申、残念ナル事ニ存申候」などと非常に悔しがっています。

杉仁『近世の在村文化と書物出版』(吉川弘文館、2009)によると、池田草庵自身の著作として出版された唯一の刊本が『古本大学略解』で「擱筆は明治3年〈1870〉、刊行は明治5年、60歳」(340頁)のことといいます。亡くなる6年前のことですね。

『古本大学略解』は『康斎先生日録』と同じ河内屋こと群玉堂岡田茂兵衛が版元で、京都大学附属図書館谷村文庫本(https://m.kulib.kyoto-u.ac.jp/webopac/RB00009880)の一部を京都大学貴重資料デジタルアーカイブの画像データとして見ることができます。

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京都大学附属図書館谷村文庫蔵 池田草庵編著『古本大学略解』冒頭

おそらくは、草庵自身が「板ハ文字明朝様が冝敷奉存候」と希望し叶えられたのでしょう、今の私たちが明朝体と思うような字様で刻まれた整板本になっています。


この「明朝様」と呼ぶ版刻書体(刊本字様)について、池田草庵より一世代前の人物である松崎慊堂(1771生-1844没)が、私たちにとってとても重要なメモを残しています。東洋文庫377『慊堂日曆』5巻28-29頁に翻刻されている、慊堂による『欽定武英殿聚珍板程式』の覚書です。

天保7年〈1836〉12月27日の日記に「終日、武英板式を読む」(24頁)とありますが、これはただ『欽定武英殿聚珍板程式』に目を通したということではなく、「日暦」26-27頁に「慊堂手録」影印が掲げられているように、武英板式の内容を細かくノートに写し取っていたということのようです。

武英殿聚珍板というのは、『四庫全書』の編纂に着手した清王朝第6代皇帝である乾隆帝が、紫禁城南西隅に建てた武英殿に設置した刻書所で印刷させた木活字版のことを言います。そして、武英殿における出版事業の計画・決算報告と併せて木活字での活版印刷工程全体が『欽定武英殿聚珍板程式』として乾隆甲午39年〈1774〉にまとめられました。
「程式」に記された武英殿木活字での活版印刷工程は、目次の順番で次のようになっていて、国会図書館デジタルコレクションで内容を確認することができます(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2573597)。


「手録」影印には、上記工程のうち槽版、頂木、中心木、類盤、套格、擺書、校對の項が見えます。翻刻された「日暦」本文では、費用に関係する箇所と、工程関係から刻字、字櫃の項を読むことができます(28-29頁)。
翻刻文の冒頭(28頁「○武英殿聚珍板式(金簡)」という見出しから始まるところ)は費用関係の部分(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2573597/15)なのですが、非常に興味深い語句の補足が見えているところに注目したいと思います。

まず国会図書館本『欽定武英殿聚珍板程式』で当該箇所(#ndldigital 15コマ)を確認しておきましょう。

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#ndldigital『欽定武英殿聚珍版程式』15コマ(7丁ウ-8丁オ)

見開きの左側(8丁オ)の3行目から、「木子毎百個銀二銭二分」「刻工毎百個銀四銭五分」「写宋字毎百個工銀二分」と、木活字の製造にかかる費用の詳細が記され、以降、他の道具についても同様の記述が続いています。

これについて翻刻された「日暦」ではどのように記されているか。28頁下段冒頭から3行分を書き出してみましょう(強調は引用者)。

木子、活字のこま、木字、こまのほりたるもの。木子百個ごとに銀二銭二分、刻工百個ごとに銀四銭五分。写宋字、明朝の筆耕、百個ごとに銀二分。

「木子」という用語に対して慊堂は「活字のこま、木字、こまのほりたるもの。」という注釈を加えています。そして強調した箇所では「写宋字」という原文の語句に対して「明朝の筆耕」という注釈を加えているのです!

「写宋字」という語句は、「刻字」工程のところにも書かれています。念のため、国会図書館本『欽定武英殿聚珍板程式』で「刻字」の項目を確認しておきましょう。

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#ndldigital『欽定武英殿聚珍版程式』より「刻字」の項

次のように記されています。

応刊之字照格写宋字後逐字裁開復貼于木子之上面用木牀一個高一寸長五寸寛四寸中挖槽五条寛三分深六分毎槽可容木子十個上下用活閂塞緊即與鐫刻整版無異

当然ですが、武英殿聚珍版の関係者にとって、武英殿木活字の字様は「宋字」という呼び名ですから、明朝云々といった語句は出てきません。

慊堂は、武英殿聚珍板に用いられている木活字の字様(活字書体)が(少なくとも「武英程式」において)「宋字」と呼ばれていることを理解しつつ、それが当時の日本で「明朝」と呼ばれる刊本字様であるという認識を持っていたと言えるでしょう。

さて、では慊堂は、中国で「宋字」と呼ばれたこの字様・書体の印刷文字を、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ぶようになったのでしょうか。

残念ながら、直接的な資料は見つけ出すことができていません。現時点で仮説的に想像しているのは、林述斎に師事したことが影響しているのではないかという観点からのものです。
述斎は、原出版地である中国で散逸してしまい、日本に伝存していた古漢籍(佚存書)について、『佚存叢書』として寛政11年〈1799〉から文化7年〈1810〉にかけて編集・出版しています。伝本の中から善本を選び出す作業に必要な書誌学的な吟味のため、特定の刊本字様(版刻書体)のことを「明朝」と名づける、そのようなことがあったのではないかという想像です。

この方面に明るい方からのご教示を頂戴できれば幸いです。


「明朝様」や「明朝風」という呼び方が用いられるのはどういった時期のどういった集団によってなのかといった問いや、それが「明朝体」へと切り替わっていく時期はいつごろなのかといった問いには、まだ全く答えることができません。

中国で「宋体」と呼ばれる字様・書体の印刷文字のことを日本で「明朝」と呼んでいることが確実であるような事例として、これまでに見つけた一番古いものが、天保7年〈1836〉12月27日の松崎慊堂手録に記された『欽定武英殿聚珍板程式』の木活字等製作費用覚書に「写宋字、明朝の筆耕、百個ごとに銀二分」という具合に記されているものだ――という結論だけ、ここに繰り返し記しておきます。

堀川貴司「漢籍から見る日本の古典籍」の代替図版リスト

2013年6月6日に開催された講演、堀川貴司「漢籍から見る日本の古典籍 ―版本を中心に―」の中に、自分にとってたいへん興味深い指摘があった。残念ながら実際の講演を拝聴したわけではなく下記の講演録を通じて知ったもので、漢籍を対象とする書誌学の考え方に沿って1・分類、2・構成、3・文字という3つの観点から日本の古典籍の吟味の仕方を考えてみようという講演内容のうち、3-(2) 字様という項が、それだ。

国文学研究資料館調査研究報告第34号 』(2014)に掲載された講演録(http://doi.org/10.24619/00001031)から、「字様」の項の末尾2段落分を引いておく。18ページに曰く:

 日本の版本について言えば、春日版・高野版等古版本の肉太な字様などが源流として存在し〔図11〕、五山版経由の欧〔図12〕・柳が加わり(顔は皆無と言ってよい〔図13〕)、江戸初期、古活字版経由の趙〔図14〕が広がって、これらが整版本に継承され、そこにやや遅れて明朝体が加わることになる〔図15・16〕。広く普及するのは黄檗版(鉄眼版大蔵経を含む、臨済宗黄檗派による出版)が流布する一七世紀半ばか。
 ただ、稿者の専門である日本漢詩文集を見ていくと、一七世紀後半に欧とも明朝ともつかない独特のやや肉太の字様〔図17〕が出てきたり、一八世紀半ばには全体に細い線で右上がりがあまりない、やや稚拙と言ってもよいような字様が主流だったり〔図18〕と、独自の展開があり、さらに一九世紀に入ると清版の影響で繊細な明朝体や写刻体が生まれるなど、実に多様である。和刻本ではもとになる中国版本の字様が踏襲されるのに対し、オリジナルの漢詩文集だと著者の好みや版下筆耕の個性が出るのだろう。ただ、そうでない例を探すことも含め、このあたりの整理も、漢籍書誌学を見習うべき課題である。

残念ながら、講演録では、当日の配布資料で示されていたという合計20点の図版のうち図1から図19までが「比較的入手しやすい出版物」によるものとして、省かれている。

「比較的入手しやすい」と言われているものの、Covid19禍下にあって大学図書館等へのアクセスが大幅に制限されている状況で、地元県立図書館等に所蔵の無いようなアクセスしにくい資料が大半だ。

ここ10年ほどの間に影印資料の底本がウェブ資源化されている場合があるので、リンク集を私製してみた。一部は「影印資料の底本」ではなく同等の刊本をウェブ資源化したものへのリンク(※印)とし、更に演題に沿った書風・字様等を示すために代替可能と思われるウェブ資源へのリンク(☆印)も設けた。



図1:新編四六必要方輿勝覧(宮内庁書陵部蔵、『日本宮内庁書陵部蔵宋元版漢籍影印叢書』第1輯、北京・線装書局、2001)
https://db2.sido.keio.ac.jp/kanseki/T_bib_frame.php?id=006845宮内庁書陵部収蔵漢籍集覧―書誌書影・全文影像データベース―)


図2:新鍥全補天下四民利用便観五車抜錦(東京大学東洋文化研究所仁井田文庫蔵、『中国日用類書集成』1汲古書院、1999)
×ウェブ資源無し


図3:史記 黄善夫本(国立歴史民俗博物館蔵、古典研究会叢書漢籍之部17『史記』(1)、汲古書院、1996)
https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/sohanshiki/h-172-80国立歴史民俗博物館データベース)


図4:「図2に同じ」
×ウェブ資源無し


図5:勅修百丈清規(1356刊本、米国議会図書館蔵、住吉朋彦「米国議会図書館蔵日本伝来漢籍目録解題長編」『斯道文庫論集』41、2007・2〈刊記ママ〉)
×ウェブ資源無し(LoCでは「敕修百丈清規」としてカタログ化されていて「勅修百丈清規」では検索されないので要注意〈https://lccn.loc.gov/00508270〉)
☆『斯道文庫論集』41(2006)に掲載された住吉朋彦「米国議会図書館蔵日本伝来漢籍目録解題長編」:
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-20060000-0201


図6:金詩佳絶(長沢規矩也蔵、現在関西大学図書館蔵、『和刻本漢詩集成』総集篇10汲古書院、1979)
×ウェブ資源無し


図7:類聚歌合(元永元年10月2日内大臣忠通歌合)断簡(国文学研究資料館99-133-1、同展示図録『古筆のたのしみ』2012)
×ウェブ資源無し


図8:類聚歌合(某年秋朱雀院女郎花合)断簡(国文学研究資料館17-6、同上)
×ウェブ資源無し


図9:和漢朗詠集寛永13〈1636〉刊、明星大学人文学部日本文化学科蔵、『明星大学人文学部日本文化学科所蔵古典籍目録』同科編・発行、2012
×ウェブ資源無し


図10:和漢朗詠集(元禄5〈1692〉刊、同上、同上)
×ウェブ資源無し


図11大般若波羅蜜多経 巻第107 春日版(慶応義塾図書館蔵、白石克執筆『慶応義塾図書館蔵 日本古刊本図録』上、慶應義塾三田メディアセンター、1995)
×ウェブ資源無し
☆巻第374 春日版:https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/kanseki/110x-17-2-1慶応義塾大学メディアセンターデジタルコレクション)


図12:兀庵和尚語録(建仁寺両足院蔵、川瀬一馬『五山版の研究』ABAJ、1970)
×ウェブ資源無し


図13:首楞厳経義海、東善寺版(称名寺蔵、神奈川県立金沢文庫保管、同展示図録『唐物と宋版一切経』1998)
×ウェブ資源無し


図14:白氏文集 那波本(宮内庁書陵部蔵、下定雅弘・神鷹徳治編『宮内庁所蔵 那波本白氏文集』勉誠出版、2012)
×ウェブ資源無し
※元和4〈1618〉跋:https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he16/he16_00658/index.html早稲田大学古典籍データベース)


図15:白氏長慶集 万暦刊(斯道文庫蔵、浜野文庫ハ38A/4-41#10)
×ウェブ資源無し


図16:白氏長慶集 明暦3〈1657〉刊(長沢規矩也蔵、現在関西大学図書館蔵、『和刻本漢詩集成』9、汲古書院、1974)
×ウェブ資源無し
※松栢堂,、明暦3:https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he16/he16_02690/index.html早稲田大学古典籍データベース)


図17:艸山集 延宝2〈1674〉刊(国立公文書館蔵、『詩集日本漢詩』13汲古書院、1988)
https://www.digital.archives.go.jp/img/1251009国立公文書館デジタルアーカイブ


図18:南海先生文集 天明4〈1784〉刊(中村幸彦蔵、現在関西大学図書館蔵、『詩集日本漢詩』1汲古書院、1978)
×ウェブ資源無し
天明四年紀州亀屋六兵衛等刊本:https://www.nishogakusha-kanbun.net/database2/0211/二松學舍大学日本漢学画像データベース)


図19:群書類従 巻第225 詩歌合〈文明15年正月13日〉(斯道文庫寄託センチュリー文化財団蔵)
×ウェブ資源無し
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2576244/42国立国会図書館デジタルコレクション)


残念ながら、日本の刊本における「字様」の話題に関係する「図11」から「図18」のうち3点について、代替資源も見つけることが出来なかった。いずれ機会を見て更新しておきたい。

引き続き生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話から筆耕の二人のこと

先日「生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話が竹村真一『明朝体の話』「三、書者名つきの明朝体」に伝わっているのだけれど」に記した通り、大正11年7月4日に生田可久が三村竹清語ったという「明朝ほり」の話において「明朝風」の字を書く筆耕としての評判が語られているように見えるのは渡辺源蔵と森源蔵の2名になる。

くどいようだが、丸山季夫『刻師名寄』(吉川弘文館国学者雑攷別冊」、1982)が依拠している「洞梅録」(『集古』甲子3号〈集古会、1924〉所収)バージョンで、「明朝ほり」の話を記しておく(「洞梅録」で特段の表題は付されていないが、『本之話』で「明朝ほり」とされている)。

明朝と云ふ書風は初は唐本風なりしが嘉永の頃源蔵明朝と云ふが起これり、源蔵といふ人二人あり、一人は渡邊源蔵とて医学館に出でたり、家は瀬戸物町の鰹節屋イのうしろと聞く、此の人筆耕のときは拙く見ゆれどほり上げては非常にひきたちて見えし、中島文平此の書風を継承す。一人は森源蔵とて細川家の臣也、此の人は筆耕のときは善くほりては左程に非ずとぞ。此の後佐太郎明朝行はる、森谷佐太郎と云ふ彫師の創めしものにて、此の風は津の守坂下、蓮池に住める松久粂蔵伝へたり。川村明朝は川村某の創案にて、入谷の安井台助此の風を彫る、安井の忰川田弥太郎も亦明朝ぼり也。又清八さんの明朝と云ふは篠原清八明朝彫にて此の人の風を云ふ。先代安田〈ママ〉六左衛門(天神山といひ平河町住なり筆耕彫りにて群書類聚も此の人の手に成りし由)の子なり此の外に酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなど、皆明朝彫りをなせりと云ふ。生田可久君談

渡辺源蔵も森源蔵も国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベースでは該当者が見えない。そもそも筆耕/傭書/版下書き(板下書き)といった作業を担った者の名が刊本に記されることは、彫師/彫工/刻工/彫刻者よりも更に稀である。


Googleブックス検索とスカラー検索で色々なキーワードを試し、「江戸医学館」と「版下」の組み合わせで見つかった「ワタナベゲンゾウ」が居る。

北里大学東洋医学総合研究所医史学研究部の小曽戸洋・天野陽介氏による「『医心方提要』について」という講演録(『日本医史学雑誌』第57巻第2号〈2011.6〉145頁)に、次のことが記されている(強調は引用者)。

  • 半井本を半井家より取出す計画は嘉永 2 年(1849)に始まり,阿部正弘・六郷政殷を通じて半井広明に接触を計った.
  • 10 月 15 日,半井本は医学館に貸与,ただちに影写に関する細則が協議され,喜多村直寛が最終的に「医心方影写程式」を書き上げ,これに従い影写作業が進められることになった.
  • 年 12 月 14 日には幕府から出版許可が下り,翌々 16 日には校勘の役職が決定.小島春沂は「医心方縮刻程式」なる版下作成要項を草して書家渡辺源三に指示した.

半井本(原本)の『医心方』は1984年に国宝に指定されたという。

『漢方の臨床』第62巻第4号(2015)の真柳誠〈目で見る漢方資料館(320)「江戸の絶技、影写本と影刻本」〉(PDF)では、この『医心方』半井原本と、「書家の渡辺源三が大多数の版下を縮小影写した」医学館影刻本を、掲載画像によって見比べることが出来る。

半井本の貸与と医学館での影写・影刻事業の背景については、矢数道明「江戸医学における『医心方』の影写と校刻事業の経緯」(『日本医史学雑誌』第31巻第3号〈1985.7〉303-316頁)に詳細に記されている。

その中に、楊守敬が『日本訪書志』で医学館影刻本『医心方』について次のように評していると書かれているところがある(強調は引用者)。

其の書体に至りては秀逸にして、古香掴む可し。その影写手、渡辺源三、また一時の絶技なり。刊刻の精、校訂の密、当さに日本摸刻古書の第一と為すべし。その載するところの校刻職名中、森立之、浅田宗伯の如きは、今巍然として猶お存す。皆群書を博覧せること、中土方今の医家の未だ有らざるところと為すなり

なるほど、医学館影刻本『医心方』の国会図書館本(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555583/10)や京大図書館本(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013365 の第10コマ)冒頭を見ると、影写・影刻事業の総監督(総理)や校勘作業に従事した者たちの名を掲げた一覧の末尾に、影写手として渡邊の名が掲げられている。特記すべき働きを見せたのだろう。

『聚珍録』第一篇に出てくる伴源平『魚名づくし半口合』が伴源平『浪速みやげ』中の一項目だったと判った正月

久々に「府川充男撰輯『聚珍録』(三省堂、2005)愛読者Wiki(暫定版)」の進捗に関する話題。

2016年時点の目標を修正し、個々の書目に関するコメントを捨象して簡易なリンク集を作成してしまうことを狙った作業を時折進めていたものを2021年5月5日付でいったん公開していたのだけれど。

その際、「国会図書館所蔵」とされているものの中に、単にデジタルコレクションで見つからないだけでなく、そもそも国立国会図書館サーチで見つからない資料が幾つもあることが改めて可視化されて頭を悩ませていた。

本日取り上げる、「魚名づくし半口合」も、そのひとつ。

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#ndldigital「魚名づくし半口合」

これは『聚珍録』第一篇に図1-106として156頁に掲げられている図を、今回ようやく国会図書館デジタルコレクションから探し出したもの。

『聚珍録』第一篇本文148頁および註1150(365-366頁)では伴源平『魚名づくし半口合』(赤志忠七、明治14〈1881〉年。国立国会図書館所蔵)とされていて、これまで「魚名づくし半口合」だけでなく「魚名 半口」などと検索条件を工夫しても見つからなかった資料だった。

先ほど試みに「伴源平 1881」で見つかる資料3点の中身を順次確認してみたところ、伴源平『浪速みやげ』(赤志忠七、明治14〈1881〉年)の中に、当該の見開きが見つかった。

目次がデジタル化されるような造りではないので、私製しておく。

伴源平『浪速みやげ』(赤志忠七、明治14〈1881〉年:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898031

  • 新編童戯(しんへんどうけ)/往来商売(わうらいしょうばい)(2コマ)
  • 百人一首一口噺(ひゃくにんいっしゅひとくちばなし)二編(3コマ)
  • 江湖人情客眼(よのなかにんじゃうきゃくまなこ)(4コマ)
  • なんでもかまわぬ/親玉(おやだま)づくし 二編(5コマ)
  • 広告/太閤散/糠粕請売所/家康膏/攘丹/金貸圓/滑稽陳文局(6コマ)
  • ⿱幼男才会(ぼんさいくゎい*1(7コマ)
  • 老記憶旧弊談(としよりじまんきゅうへいはなし)/浪速物識天狗(なにはものしりてんぐ)(8コマ)
  • 智恵(ちゑ)くらべ考物(かんがへも)(9コマ)
  • 何処(どこ)にも出(で)てない/新発明紹牌雛形(しんはつめいかんばんひながた)(10コマ)
  • 不調法珍考記(ぶちゃうほふちんかうき)(11コマ)
  • 新撰紋(しんせんもん)づくし(12コマ)
  • 魚名(うをのな)づくし半口合(はんくちあい)(13コマ)
  • 趣向(しゅかふ)ハ古風(ふるい)が/今様笑談(いまやうはなし)(14コマ)
  • 浪華官寺無理問答(なにはみやてらむりもんどう)(15コマ)
  • 謔言口合(おどけくちあい)/神事(じんじ)あんど(16コマ)
  • 宏壮阪府他所無類(ひろいおほさかよそにるゐなし)/稀有稀例烈(けぶけれれつ)(17コマ)
  • 新作後附(しんさくあとづけ)かづけがき(18コマ)
  • 新作/なぞ〳〵春(はる)の六花(ゆき)(19コマ)
  • 奥付(20コマ)

*1:⿱幼男〈上に「幼」下に「男」〉という構成の造字に「ぼん」というフリガナを振っている

名誉教授の訃報

父の逝去に伴い、国会図書館(国内資料課)に父の没年データを提供したのだけれど。

NDLへの連絡に先立って、父の最後の勤務大学総務部門への連絡を済ませておいた。某大学、としておこう。この某大学は「某大学 訃報」で検索しても、たまたま訃報が掲載された新聞記事しかヒットしない。

大学名を省いて、より一般的な「大学 訃報」や「名誉教授 訃報」などで検索してみると、非常に興味深い2校が突出した取り組みを行っていることが判る。

1つは大谷大学。さもありなん。訃報を扱わせたら日本で一二を争う専門家と言っても過言ではないだろう。「ニュース一覧」の「お知らせ」(https://www.otani.ac.jp/news/2021/another.html)を見ると、逝去の翌日にはかなり詳細な告知が出されている様子が伺える。

もう1つは上智大学。こちらも校風が出ているということだろうか。「ソフィア会」ウェブサイトには訃報だけをアーカイブしたリスト(https://www.sophiakai.gr.jp/news/news/nod/index.html)があるのだ、ということに感嘆する。

国会図書館の著者名典拠データに父の没年を登録

父が今月逝去した。急なことではあったが、平均寿命は超えており、天寿を全うしたと言ってよいだろう。
国会図書館の著者名典拠データに登録されていることを以前確認していたので、「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」(https://id.ndl.go.jp/auth/ndla)の右下にある「お問い合わせ」フォームから、自分が故人の子であることと、生年月日・没年月日の情報、そして追加で必要になるような資料の有無を尋ねる短文を入力・送信した。
「追加で必要になるような資料の有無」を尋ねたのは、以前第三者の没年情報を提供した際、何らかの客観的な資料が必要であると承知していたからだ。
思い描いていたのは、故人と当方との関係を客観的に示すような資料や、例えば故人の名が入った葬儀告知といったもの。
なりすましによるイタズラではないという確認は求められるのではないか、という想定だ。
結論としては、追加の資料等は特に必要ないということだった。
問い合わせフォームとして必須ではない国会図書館の利用者IDの項目をきちんと入力しておいたから、情報提供者に関する素性は確認済みであるというような扱いだろうか。



以下2021年12月28日追記:
国会図書館の利用者IDの項目を入力していなかったらどうなるか――という手順を先に試してみようと考えないでもなかったが、師走の忙しい時期に個人的な好奇心からNDL職員の手を煩わせるのもどうかと思い、利用者IDの項目を入力してからフォームを送信してしまった。「故人の没年データを遺族が自主的に告知する際にどのように行えばいいか」の情報共有という意味では、親切心が足りない記事となり、今ちょっと反省している。
手順については、NDLの中の人による、ちゃんとした解説が書かれるだろう。

上記のような情報を火曜の夜8時過ぎに送信したところ、翌々日(木曜)の朝10時半頃に、「ご家族からのお申し出ということで、証明書類等は不要ですので、没年を追記させていただきました。」として、著者名典拠データへのリンクを記した返信メールを受け取った。
更新された著者名典拠データを見ると、「出典 dct:source」の項目に「家族回答 (202112dd) (没年)」(ddは実際にはフォーム送信を行った日付が記載されている)と追記され、「編集履歴 skos:historyNote」に「没年追加 (202112dd)」と書かれていた。

以前「文化庁長官裁定でのインターネット公開」になっていたデジタル化資料の著者が生没年不明の扱いだったところ、たまたま縁故者をネットで知り、家族回答を取り次いだ際にも典拠データが数日で更新された。典拠データに関わる方々、スピーディーで頼もしい。

小秋元段先生の〈一部嵯峨本とその前史に見られる #乙女割付〉論文の存在に今頃気がついた

去る2月20日に開催された #印刷博物館20周年記念トークイベント 第1回 #印刷文化学会議 の第一部、小秋元段「黎明期の平仮名古活字版の諸相」を残念ながらリアルタイムで視聴することができず、7月末に公開された音声アーカイブ #いんぱくポッドキャスト #4(https://anchor.fm/printing-museum/episodes/4-1-Part1-e130jhf)で拝聴して驚いていた。

小秋元氏が「嵯峨本前史を形成する書物群」と仰る幾つかの木活字本においては、自然な両端揃えの版面を構成しながら、同時に文節改行が徹底されている(!)のだという!!*1

講演アーカイブの36分あたりから、「乙女割付」というキーワードを用いながら、上述の両端揃え文節改行徹底の様相が解説されていく。すごい、すごいよ小秋元先生!!!

図版なし音声のみでも十分にそのすごさ面白さが伝わり、SNSで「#乙女割付」というキーワードがライブ視聴者の間で飛び交っていた理由がよく分かったものだったのと同時に、当日にその興奮を共有できなかったことを改めて悔しく思ったわけなのだけれども。

実は今頃になって、トークイベントからひと月ほど経った2020年度末(2021年3月)に発行された法政大学文学部紀要82号に小秋元段「嵯峨本とその前史の一相貌」という論文が掲載され、機関リポジトリ経由で誰でも閲覧可能となっていたこと(http://doi.org/10.15002/00024065)に気がつきました。

これ、一般向け講演の口頭発表じゃないから論文文体で綴られていて、しかもどこにも「乙女割付」っていうパワフルなキーワードが出てこないけど、内容は #印刷博物館20周年記念トークイベント 第1回 #印刷文化学会議 の第一部「黎明期の平仮名古活字版の諸相」の準備原稿として書かれたと言われても納得できちゃうような、乙女割付の発見に関する論文じゃないですか小秋元先生!

20112021年11月24日23時現在で自分の分を含めて17ダウンロードしかされていないのはおかしい。17万ダウンロードの間違いじゃないのか?!

あと16万9983人くらいの方が、自分同様、単に論文の存在に気がついていなかっただけなんじゃないかと思うので、じゃんじゃん宣伝してどんどん読まれるべき。

そして今年度から3年間の計画で進められている「平仮名古活字版の誕生と展開」(https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-21K00272/)がまとまった本の形で刊行される際には、ぜひ「乙女割付」の語が採られるよう、トークイベントにハートを射抜かれた我々リスナーの無言の圧力を感じてもらうべき。


11月25日追記:乙女割付論文のダウンロード数確認時の日付、10年間違えていたので訂正しました。ご指摘ありがとうございます。この訂正と併せて、表題を「小秋元段先生の #乙女割付 論文の存在に今頃気がついた」から小秋元段先生の〈嵯峨本前史を形成する書物群に見られる #乙女割付〉論文の存在に今頃気がついた」小秋元段先生の〈一部嵯峨本とその前史に見られる #乙女割付〉論文の存在に今頃気がついた」に変更しました(←いったん変更した表題を再度変更しました)。

*1:できれば公演の音声アーカイブ全体を通して聴いた方がいいと思うけど、今すぐ驚きたい方は、開始から31分丁度のあたりまで早送り可。