日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

日本各地で出版された「印刷史」「印刷文化史」本

文明が開化し日本各地に印刷業が成立し始めてから20年ほどが経過した明治半ば、様々な産業で同業者組合が結成されていく中で、印刷業の世界でも概ね都道府県を1つのまとまりとする同業組合が成立していった。
昭和戦前期や高度経済成長期、あるいはコールドタイプ化などの時代の節目に「〇周年」を迎えることとなった各地の印刷同業組合の多くが、記念事業として「〇〇印刷史」「××印刷文化史」といった記念誌を発行している。単なる組合の歴史を超え、大なり小なり地域の印刷史・印刷文化史を扱ったものになっている。

近世から出版の三都と呼ばれた京都(『京都印刷一千年史』)大阪(『大阪印刷百年史』)江戸(『京橋の印刷史』)のものは別格で、とりわけ“我々こそが近代日本の印刷業界を牽引してきたのだ”という自負とともに編纂された『京橋の印刷史』は、日本全体を扱う細かすぎる年表が整備されていることからか、近隣諸分野から参照されることが多い。

駿河版の静岡、木村嘉平の鹿児島、本木昌造の長崎、秋山佐蔵の多摩など、地域の印刷史に“つよつよ”のトピックを持つものは、当然それらを大きく扱っている。

北海道印刷工業組合50年史 三浦康著 北海道印刷工業組合 1993
青森県印刷史 青森県印刷工業組合 青森県印刷工業組合 1982
秋田県の印刷文化史 秋田県印刷工業組合編 秋田県印刷工業組合 1992
山形県印刷文化史 武田好吉編著 山形県印刷協同組合 1971
宮城の印刷史 宮城県印刷工業組合 宮城県印刷工業組合 1986
つれづれ印刷文化史 : 福島県の印刷事始め随想 今泉壮一 福島県印刷工業組合 1997
栃木県印刷史 栃木県印刷工業組合編 栃木県印刷工業組合 1981
茨城県印刷文化史 茨城県印刷工業組合編 茨城県印刷工業組合 1988
京橋の印刷史 東京都印刷工業組合京橋支部五十周年記念事業委員会編/牧治三郎著 東京都印刷工業組合京橋支部五十周年記念事業委員会 1972
多摩の印刷史 東京都印刷工業組合三多摩支部「多摩の印刷史」刊行会編 東京都印刷工業組合三多摩支部 1985
支部史・千代田の印刷 東京都印刷工業組合千代田支部 東京都印刷工業組合千代田支部 1967
神奈川県印刷業史 神奈川県印刷工業組合神奈川県印刷工業史編集委員会 神奈川県印刷工業組合 1991
静岡県印刷文化史 静岡県印刷文化史編集委員会 静岡県印刷工業組合 1967
山梨の印刷史 山梨の印刷史編集委員会 山梨県印刷工業組合 1987
長野県印刷文化史 長野県印刷工業組合編 長野県印刷工業組合 1997
石川県印刷史 石川県印刷工業組合編 石川県印刷工業組合 1968
富山県印刷史 富山県印刷工業組合編 富山県印刷工業組合 1981
名古屋印刷史 : 創立二十周年記念 愛知県印刷工業組合編 愛知県印刷工業組合 1979〈1940〉
京都印刷一千年史 京都印刷一千年史編集委員会 京都府印刷工業協同組合 1970
近世大阪印刷史 多治比郁夫著 大阪府印刷工業組合 1984
大阪印刷百年史 大阪印刷百年史刊行会編 大阪府印刷工業組合 1984
東大阪の印刷史 三〇周年記念誌刊行委員会編 大印工東大阪支部 1984
兵庫県の印刷史 兵庫県印刷組合記念史委員会編 兵庫県印刷紙工品工業協同組合 1961
紀州印刷史 紀州印刷史編纂委員会編 和歌山県印刷工業組合 1991
鳥取県の印刷50年の歩み : 鳥取県印刷工業組合40年史 西上忠幸編 鳥取県印刷工業組合 1998
広島県印刷史 田村信三著 広島県印刷工業組合 1985
島根県印刷工業組合60年誌 : 島根県の印刷130年の歩み 島根県印刷工業組合編 島根県印刷工業組合 2002
愛媛県の印刷史 愛媛県印刷工業組合編 愛媛県印刷工業組合 1983
長崎印刷百年史 田栗奎作著 長崎県印刷工業組合 1970
大分県印刷工業組合40年史 大分県印刷工業組合編 大分県印刷工業組合 1998
かごしま印刷史 高栁毅著 鹿児島県印刷工業組合 2003

おそらく遺漏も多いことと思う。この方面に関心のある方は、印刷図書館(分類検索>組合史・団体史)をご覧いただきたい。

なお、地域に根差した新聞社の社史においても、地域の印刷史・印刷文化史が描かれることがある。これは神奈川県立川崎図書館の守備範囲となろうか。

大正4年の年賀ハガキ(?)巌谷小波『兎の車』の情報求む

入稿原稿風の朱書きが見られる複製原稿風に作られた、大正4年の年賀はがきかと思われる、巌谷小波『兎の車』というのを入手しました。

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逓信省発行郵便はがき巌谷小波『兎の車』〉複製原稿面

原稿用紙を再現したらしく見える内容で、天には罫線と同じインクで「小波用紙」と刷られています。そこに「【注意】新仮名遣の事」という朱書き。

なるほど本文では「兎わ」と主題を示す格助詞「は」が「わ」と綴られる、明治38年式の仮名遣いが用いられています。

こうした印刷所(文選工)への注意書きや、フリガナの朱は編集者が書き入れたものという体裁。

この複製原稿風に作られた面の右余白には、活字で「大正四年一月一日」と印刷されています。

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逓信省発行郵便はがき巌谷小波『兎の車』〉オモテ面

オモテ面を見ると、「大正4年1月1日」付、高輪郵便局の消印が押してあります。「逓信省発行」、「印刷局製造」の活字は、「篆書ゴジック」の仲間と言っていいのか、他の活字書体になるのか、はたまた「活字」では無いのか。

それはさておき。

この、いかにも入稿原稿の複製原稿風に作られた巌谷小波『兎の車』なのですが、実際に何かの媒体で発表された文章の冒頭部分になるのでしょうか。あるいは、卯年の年賀はがき用に作られた全くの企画品なのでしょうか。

巌谷小波は、「小波用紙」という専用の原稿用紙を実際に作成して普段の仕事に使っていたのでしょうか。

逓信省は、このように絵葉書類とは異なる企画もの年賀はがきを他にも作成していたのでしょうか。

巌谷小波に限らず、ぼーびき仮名遣いなど明治末期の仮名遣いを反映させた原稿は、一般的に、印刷所への入稿時に「新仮名遣注意」といった朱書きがつけられていたのでしょうか。実例が残っていたりするのでしょうか。

色々と気になることがたくさんあるのですが、手がかり、糸口が見つかりません。ご存じの方、ご教示ください。

巌谷小波『こがね丸』題字の彫工と同書制作進行のスピード感(付『こがね丸』の活字書誌)

このところ生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話の中で明朝を得意とする版木彫刻師として言及されている安井台助(臺助)について色々と調べている過程で、『巌谷小波日記』に安井台助の名が記されていることを知った。先日「幕末明治期の版木彫刻師安井台助が白百合女子大学小波日記研究会翻刻の『巌谷小波日記』に載っていた」に記したように、博文館「幼年文学」の第2として刊行された『猿蟹後日譚』の印刷者が安井台助であり(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1168259/17)、明治24年の日記で数回言及されている。

実はその前年、明治23年にも巌谷小波と安井台助の関わり合いがあったようだ。

明治23年12月)廿六日 晴 / 午前桂舟へそれより尾崎ヲ訪ヒ黄金丸題字ヲ安井へ送る(『巌谷小波日記―翻刻と研究』120頁)

これは12月26日の午前、まず『こがね丸』の表紙絵・挿絵を頼んでいる武内桂舟のところへ行き、続いて題字を頼んだ尾崎紅葉を訪問し、尾崎から受け取った題字を安井台助へ送った、という記録であろう。腕の立つ版木彫刻師であったらしい安井が「筆意彫り」によって尾崎の題字を版木に彫り上げたということになろうか。

巌谷小波『こがね丸』題字(の版下)を尾崎紅葉が書いたというのは初耳で――出来上がった書籍に紅葉の名が示されていないからであろう、国会図書館の書誌(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919765)にも国文学研究資料館の近代書誌・近代画像データベース(http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_CKMR-01226)にも見えない――、とはいえひょっとして著名な話なのか?とGoogleブックス検索とscholar検索をかけてみたところ、数少ない言及が加藤理『駄菓子屋・読み物と子どもの近代』青弓社青弓社ライブラリー 10」、2000)に見られるようだった。

加藤理氏は『巌谷小波日記〈自明治二十年 至明治二十七年〉翻刻と研究』(桑原三郎監修、慶應義塾大学出版会「白百合児童文化研究センター叢書」、1998)執筆者の一人。『駄菓子屋・読み物と子どもの近代』を近所の図書館で借覧してみると、なるほど「巌谷小波日記」が大いに活用されているようだ。そこで加藤理『駄菓子屋・読み物と子どもの近代』〈第2章「児童の世紀」と読書の喜び〉の「5 子どもの読み物の誕生―『こがね丸』の出版」(72-88頁)を手掛かりに、『こがね丸』関連の件を『巌谷小波日記―翻刻と研究』から拾い出してみよう。すべて明治23年「庚寅日録」の12月分からの抜き書きである(強調は引用者、改行箇所は「/」で示し、加藤2000が拾っていない項は冒頭に「※」を付した)。

三日 雨 / 博文館へ行 新太郎と新著の議熟議(119頁)

七日 晴 / (夜)七時千駄木町ニ森鷗外ヲ訪フ 序文依頼(119頁)

九日 晴風 / 今夜妾薄命批評会 社中総会 大橋来会 表紙の事相談(119頁)

(十日「原稿十六枚四章」、十一日「原稿四章十六枚 博文館へ書状」、十二日「原稿四章十六枚」、十三日「原稿四章十二枚大尾」〈119頁〉)

十四日 晴 / (午後)二時後桂舟へ行 水蔭来合ス 三時出で博文館に新太郎ヲ訪フ四時帰(119頁)

「子どもの読み物」として企図された博文館「少年文学」シリーズ「第一」である『こがね丸』は、本文中に細かく大量の挿絵が配されている。原稿全体を書き上げたタイミングで、挿絵のテーマや数量を武内桂舟に指示し、挿絵を含む構成・編集の詳細を大橋新太郎と擦り合わせたのではなかろうか。

(十五日「午後こがね丸清書」、十六日「終日在宿 こがね丸清書 鷗外へ催促」、十七日「午後こがね丸清書」、十八日「午後こがね丸清書」、「十九日こがね丸清書」〈119-120頁〉)

16日に小波から催促された鷗外が序文を書き上げたのが12月何日になるのか、日記からは読み取れないが、刊行された『こがね丸』の序文の末尾には、確かに「本郷千駄木町の鷗外漁史なり」と書かれている。

廿日 晴 / 午前清書 十二時後梅吉ヲして博文館へ送らしむ(120頁)

※ 廿三日 晴 / 十一時国文社ヨリ宮田来ル / 午後一時出で尾崎ヲ訪ヒこがね丸表紙ヲ頼む(120)

国文社は『こがね丸』の印刷を請け負った会社(奥付の表記は「京橋区宗十郎町十番地 山口竹二郎」のみ記載で社名は無し)。おそらく、12月20日午後の早い時間に清書原稿を受け取った博文館の担当編集者(大橋新太郎?)は、活字サイズの指定など最低限の朱を原稿に書き入れ、当日のうちに国文社へ入稿しているだろう。23日11時に国文社の宮田が小波を訪問しているのは、ゲラ刷りを渡して著者校正を求めたのではないか。

仮にこの推定通りだとして、最終的に130頁総ルビになる分量の入稿原稿(日記によれば60枚分)を受け取ってから著者にゲラ刷りが渡るまで丸70時間程度――丸3日経過していない――という日程はとんでもない速さと思うが、青梅市文化財総合調査報告『活版印刷技術調査報告書』(青梅市教育委員会、2002)68頁「文選作業」の項によれば「文選工は一分間に30字拾うことが求められていたが、多くは15字から20字位の間であったらしい」ということなので、400字詰原稿用紙なら平均的な作業者でも20~27分程度で活字を拾ってしまえるようだ。

ルビを拾うのは植字作業のときになるので、400字詰原稿用紙1枚分を版に組むまでに余裕を見て文選30分植字30分の合計1時間の作業を要すると仮定してみよう。すると延べ60時間で60枚の原稿が組みあがることになる。2班で作業を分担すれば、実働35時間程度でゲラ刷りまで終えることが出来たというわけだ。

※ 廿五日 晴 寒 / 午前九時桂舟方へより広告下画ヲ博文館へ送りそれより川田家を訪問(120頁)

※ 廿六日 晴 / 午前桂舟へそれより尾崎ヲ訪ヒ黄金丸題字ヲ安井へ送る 十一時後眉山ヲ訪ヒ食事 一時帰宅 / 国文社宮田来訪(120頁)

仮に先ほどの「23日11時に国文社の宮田が小波を訪問しているのは、ゲラ刷りを渡して著者校正を求めたのではないか」という推測が正しかったとして、26日の要件はどういったものだっただろうか。著者校正の(印刷所への)戻しであったか、あるいは校正戻しは既に済ませていて、例えば「黄金丸題字」の進捗確認などの話か。

丗日 晴 / (午後)三時大橋来りこがね丸持参八部(121頁)

巌谷小波『こがね丸』の初版部数がどれほどだったか不明だが、130頁総ルビ挿絵多数という小説が、活版印刷の時代に、清書原稿入稿から10日ほどで本の形になっているという制作進行のスピード感には、ただただ、驚くばかりだ。


国文学研究資料館の近代書誌・近代画像データベースで拾われている書誌に、活字サイズに関する注記が示されている場合がある。巌谷小波『こがね丸』の書誌(http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_CKMR-01226)にも、鷗外の序文について備考欄に「○他序     / 2/少年文学序 本郷千駄木町の 鷗外漁史なり ※三号活字で組む。」という記載が見える。

残念ながら、森鴎外による『こがね丸』序文に、三号活字が使われているところは無い。「本郷千駄木町の」は四号四分アキ、「鷗外漁史なり」は二号ベタ、そして序文そのものは二号二分アキで組まれている。

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森鴎外による巌谷小波『猿蟹後日譚』序文(#ndldigital 画像を加工)

巌谷小波『こがね丸』に、三号活字が使われているところもある。せっかくなので、使用活字全種が出現する見開きを示しておこう。

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巌谷小波『こがね丸』1頁(#ndldigital 画像を加工)

この画像のように、本文1頁目に、二号、三号、四号、五号、六号、七号と『こがね丸』に使われている活字が全種類揃っている。

表題「こがね丸」が二号二分アキ、「漣山人著」と「上巻」が三号、「第一回」は四号、本文四号四分アキ、柱「少年文学」は五号、ノンブルが六号ベタ、ルビが七号となっている。

この当時の「号数活字」サイズはまだまだ十分に規格化されていないので、七号活字は五号活字の縦横半分の大きさではなく(半分よりも少し大きい)、また四号活字は五号活字の1.25倍よりも少し大きいが七号活字の2.5倍ではない(――このあたりの状況は「近代日本の活字サイズ―活字規格の歴史性」*1に記した――)。

そういった事情があるため、ルビ活字が組まれた行を観察すると、七号の二分でアキを調節することができず、更にイレギュラーな込物を用いて調整しているところがあるように見受けられる。

仮名の書風に注目しておくと、国文社の二号活字は東京築地活版製造所『二号明朝活字書体見本』(明治26年版――これはmashabow氏がウェブ資源として公開してくださっている――)などに見られる――少なくとも明治12年見本帳まで遡ることができる――、築地二号(細仮名)を多少アレンジしたものであること、同じく四号活字は明治18年印刷局活版部『活字紋様見本』型であること、更に五号活字は同じく『活字紋様見本』型(及び明治10年の紙幣局型)と所謂築地体前期五号型の「調合混植」型(一定の比率でブレンド)になるようだ、というようなことが判る。のだが、近代書誌・近代画像データベースに登録される書誌としては、活字の大きさ(とおよその組み方)が適切に拾われていれば、それで十分ありがたい。本項末尾のこの段落から「高木元「『浮雲』 書誌」の〈組版書誌〉に寄せて」に至るような話は、別途展開したい。

*1:内田明「近代日本の活字サイズ―活字規格の歴史性(付・近代書誌と活字研究)」国文学研究資料館研究成果報告書『近代文献調査研究論集』第二輯(国文学研究資料館、2017)所収

幕末明治期の版木彫刻師安井台助が白百合女子大学小波日記研究会翻刻の『巌谷小波日記』に載っていた

先日記した「生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話が竹村真一『明朝体の話』「三、書者名つきの明朝体」に伝わっているのだけれど」の後半に関係する話。

生田の話で「川村明朝は川村某の創案にて、入谷の安井台助此風を彫る。安井の忰、川田弥太郎も亦明朝ほり也」とされていた安井台助(臺助)について。

安井が関係する書目として丸山季夫『刻師名寄』(吉川弘文館国学者雑攷別冊」、1982)が南新二『鎌倉武士』だけを掲載していたところ、先般、国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベースと西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースの検索結果によって13書目を追加することが出来ていた。「生田可久が…伝わっているのだけれど」に示した13書目と『鎌倉武士』の計14書目を、刊行年順に整理し直して再掲しておこう。


両データベースと並行してGoogleブックスでも検索してみていて、面白そうな情報が『明治文学全集20 川上眉山・巖谷小波集』(筑摩書房、1968)に載っていそうに思われた。

先日地元図書館で現物を借覧したところ、検索結果のスニペット表示は明治24年の日記である「辛卯日録」9月の話だと判った。「廿日 小雨 午後安井台助来、猿蟹筆耕の件」とある。念のため前後にざっと目を通してみると、検索結果そのものズバリの9月20日だけでなく、前年も含めて何度か安井が登場するようだ。

そこで改めて『巌谷小波日記〈自明治二十年 至明治二十七年〉翻刻と研究』(桑原三郎監修、慶應義塾大学出版会「白百合児童文化研究センター叢書」、1998)で明治24年周辺に登場する安井台助の話題(と『猿蟹後日譚』の話題)を確認してみることにした。以下、『巌谷小波日記―翻刻と研究』より(強調は引用者、また改行箇所を「/」で示した)。

明治24年6月)九日 晴 / 午前後舌切雀、猿蟹後日清書(135頁)

明治24年6月)十三日 曇 夜雨 / 午前昔物語清書 正午之ヲ博文館へ送り十円受取(136頁)

明治24年「辛卯日録」の巻末に、同年6月に脱稿した作品として「舌切蛤」(幼年文学)と「猿蟹吊合戦」(幼年文学)の2点だけが記されていることから、9日付の日記に見られるようにこの2作品は並行して清書が進められ、13日に揃って完了したものと思われる。

明治24年6月)廿六日 雨 / 午後博文館使者来ル筆耕の件(136-137頁)

『猿蟹後日譚』は草双紙風本文書体で木版刷りされているので、小波によって清書されたテキストを元に、筆耕師によって本文版下が書かれ、彫師によって版木に彫刻されるという作業が必要になる。博文館は、清書原稿を受け取ってから2週間ほど、筆耕の選定に手間取っていたのだろうか。あるいは、白羽の矢を立てた筆耕師が居たものの多忙のため作業に着手できていないというような話だっただろうか。はたまた、どのような書風で進めていくか、例えば半丁ほど書かせた見本を何種か作成し、見本を元に打ち合わせをしたというような具合だっただろうか。

幼年文学シリーズの第1号、尾崎紅葉『鬼桃太郎』は活版印刷ではないが、明朝体の漢字と連綿しない平仮名による漢字平仮名交り文になっている。『猿蟹後日譚』では、仮名は連綿でない方がいいが書風はもっと江戸風の書写体がいい、というような具体的な方向付けが6月26日に定められたものか。

明治24年9月)廿日 小雨 / 在宿 午後安井台助来、猿蟹筆耕の件(143頁)

6月27日から7月、8月、9月19日までの日記に、「猿蟹」の話を見つけることができない。読売新聞の連載小説『ぬれ浴衣』や『ばアや』の話か、日常的な交友の話ばかりに見える。現時点で安井の名がフルネームで書かれているのは、この明治24年9月20日だけである。これが無ければ安井の件でGoogleブックス検索によって小波日記に辿り着くことも無かっただろう。9月20日の要件は、早めに版下原稿が欲しいという催促であったろうか。

明治24年10月)六日 晴 / 午前松居来る十一時桂舟来ル 猿蟹筆耕の件、直ちに安井へ送る(144頁)

清書原稿を元にした、筆耕師による版下原稿の完成が10月6日ということであって、版下原稿作成に着手したのは9月20日よりも前の話ではないかと想像するのだが、実際はどうだったのだろう。9月20日以降に筆耕師が決定し、2週間ほどで書き上げた――というようなスピード感だったのだろうか。

明治24年10月)十八日 晴 / 鈴木氏ヨリ五円来 / 午前桂舟ヲ訪ふ初不在後帰る猿蟹の表紙託す(135頁)

表紙絵の仕事が桂舟に託されたのは10月18日のことになるようだが、挿絵の話はどのようなタイミングで決まっていったものか、日記からは読み取れなかった。

明治24年12月)二日 晴 / 午前猿蟹校正来 桂舟ヲ訪ひそれより紅子を訪ふ(149頁)

仮に10月6日になってようやく「猿蟹」の版下原稿が一括で安井台助のところに渡ったのだとすると、2か月弱で(表紙を除く)12丁ほどの版木が彫り上げられ校正刷りが著者の元に届けられたということになる。

『猿蟹後日譚』は半丁が文字だけで成り立っているところは1行30字程度で10行分(300字程度)で、これが半丁の最大文字数であり、絵入りの丁だと1行16字程度(160字程度)で半丁分の文字数になる。間を取って、半丁分の平均文字数を230字としてみよう。

先日記した、生田可久が三村竹清に語った「文字ほり」の話に出てくる老版木師が「むかしは筆耕ほりは一時間二十三字」と言っていたということだから、「昔の筆耕彫り」レベルの彫工ならひとり実働10時間で半丁ほど彫り上げられる計算になる――とすると速度が半減していたとしても字彫りと絵彫りで2か月12丁というのは対応可能な工程か。

明治24年12月)十七日 晴 / 午前父上の命 目録(蔵書類)認む 今日幼年/文学第二出版 使者を遣はし廿部取寄せ(150頁)

『猿蟹後日譚』は、最初の校正刷りが出てから2週間ほどで出版となったようだ。


白百合女子大学児童文化研究センターのプロジェクト「小波日記研究会(小波日記を読む)」で『巌谷小波日記―翻刻と研究』刊行後も「明治28年以降の日記の翻刻に取り組み、その成果をほぼ毎年発表している」と書かれている成果は『児童文化研究センター研究論文集』に掲載されているという。

2021年11月7日現在も公式サイトの「研究論文集」の概説ページでは「児童文化研究センターでは、1996年度より、研究論文集を年に1回発行しています。(現在、頒布はしておりません。白百合女子大学学術機関リポジトリにて最新号より順次公開の予定です)」と書かれているが、機関リポジトリの「お知らせ」によると、実は2021年9月30日付で晴れて「「児童文化研究センター研究論文集」バックナンバーを全て公開しました。」ということに相成ったようだ。

そこで、「明治28年以降の日記」に安井台助の名(単に「安井」と記されているものも含む)が出てこないものか、念のため確認してみた。

4号(2000.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治二十八年 無し
5号(2001.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治二十九年 無し
6号(2002.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十年 無し
7号(2003.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十一年 無し
8号(2005.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十二年 無し
9号(2006.03) 巌谷小波資料翻刻:俳句ノート(明治三十二年) 無し
10号(2007.03) 巌谷小波資料翻刻:手帳(欧州への船旅、明治三十三年) 無し
11号(2008.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十三年)前半部・俳句等の記録 無し
12号(2009.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十三年)後半部・日記(11.5~12.31) 無し
13号(2010.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十四年)前半部(1月~6月) 無し
14号(2011.03) 巌谷小波資料翻刻:「伯林日記」(明治三十四年)後半部(7月~12月) 無し
15号(2012.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(一月~三月) 無し
16号(2013.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(四月~六月) 無し
20号(2017.03) 谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(七月~九月) 無し
21号(2018.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十七年(十月~十二月) 無し
22号(2019.03) 巌谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十八年(一月~四月) 無し
23号(2020.03) 巖谷小波日記 翻刻と注釈:明治三十八年(五月~八月) 無し

ご覧の通り、結果は見事にゼロである。


ともあれ、安井が関係する書目として、次のように追加しておこう。

今回の副産物として、内容的に版木彫刻師としても関わっていたのではないかと思われる博文館「幼年文学」の仕事が、「下谷区坂本村」から「入谷の安井台助」へと移り変わる境目の頃の仕事だったということが期せずして判明した。

この「幼年文学」刊行の日付を眺めると、明治24年6月から10月にかけての小波日記に見られる「猿蟹筆耕」をめぐる動きは、『鬼桃太郎』が済み次第『猿蟹後日譚』に取り掛かる――そういう擦り合わせの話であったのかもしれない。

生田可久が三村竹清に語った「明朝ほり」の話が竹村真一『明朝体の話』「三、書者名つきの明朝体」に伝わっているのだけれど

大正11年7月4日に生田可久が三村竹清に語ったという「明朝といふ書風其初は唐本風なりしが、漸く日本化して、嘉永の頃源蔵明朝といふが起これり」と始まる話について、延々と、虫観的に読んでみている。

いま分っている範囲で3回、三村はこの話を公に書いている。この3回の話について、『三村竹清集2』版の「ほんのおはなし(2)」で「13」というひとかたまりになっている話題を軸に、「洞梅録」や『本のはなし』に合わせて区切りながら、各々対比してみよう(原文は旧字旧仮名)。

「ほんのおはなし(2)」(稀書複製会『版畫禮讃』春陽堂、1925〉所収)「洞梅録」(『集古』甲子3号〈集古会、1924〉所収)『本のはなし』(岡書院、1930)
明朝と云ふ書風(常の活字の書風)に爪つき明朝と云ふあり。古銭家の言ふなる、安南の爪正隆手の書と同じく、文字の筆の当り鈎の如くなるを云ふ。又明朝の横画の筆の押へを判木師は鯖の尾といひ、縦画の筆の納りをいなご尻といふことぞ、右洞津の安井文哉老人の話。〈164頁〉

生田可久君の話に(大正11年7月4日来話)明朝と云ふ書風も初は唐本風なりしが、嘉永の頃、源蔵明朝出来ぬ。源蔵と云ふ人二人あり。一は渡邊源蔵とて医学館に出でたり、家は瀬戸物町の鰹節屋イのうしろと云。此の人筆耕の時は拙く見ゆれど雕り上げは非常によく見えし由。此の人の風を中島文平書す。一人は森源蔵とて細川家の家来なり。此の人は筆耕の時は善く見え乍ら、雕りては引立たざりし。此の後、佐太郎明朝行はる。森谷佐太郎と云ふ彫師の創めしものにて、此の風蓮池(津の守阪下と云ふ)に住める松久粂蔵伝へたり。川村明朝と云ふは川村某の創めし風にて、入谷の安井台助此の風を彫る。安井の倅川田弥太郎も亦明朝彫りなり。又清八さんの明朝と云ふは、篠原清八明朝彫にて斯く云へり。先代安田〈ママ〉六左衛門(天神山と云ひ平河町住なり筆耕ほりにて群書類聚も此の人の手なるよし)の子なり。此の外に酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなど、皆明朝彫りをなせり云々。〈164-165頁〉 明朝と云ふ書風は初は唐本風なりしが嘉永の頃源蔵明朝と云ふが起これり、源蔵といふ人二人あり、一人は渡邊源蔵とて医学館に出でたり、家は瀬戸物町の鰹節屋イのうしろと聞く、此の人筆耕のときは拙く見ゆれどほり上げては非常にひきたちて見えし、中島文平此の書風を継承す。一人は森源蔵とて細川家の臣也、此の人は筆耕のときは善くほりては左程に非ずとぞ。此の後佐太郎明朝行はる、森谷佐太郎と云ふ彫師の創めしものにて、此の風は津の守坂下、蓮池に住める松久粂蔵伝へたり。川村明朝は川村某の創案にて、入谷の安井台助此の風を彫る、安井の忰川田弥太郎も亦明朝ぼり也。又清八さんの明朝と云ふは篠原清八明朝彫にて此の人の風を云ふ。先代安田〈ママ〉六左衛門(天神山といひ平河町住なり筆耕彫りにて群書類聚も此の人の手に成りし由)の子なり此の外に酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなど、皆明朝彫りをなせりと云ふ。生田可久君談〈10頁〉 【明朝かき】明朝といふ書風其初は唐本風なりしが、漸く日本化して、嘉永の頃源蔵明朝といふが起れり、源蔵といふ人二人あり、一人は渡邊源蔵とて医学館に出で、家は日本橋瀬戸物町、名高き鰹節屋イのうしろと聞きぬ、此の人筆耕の時は、拙く見ゆれど、彫り上げては、非常にひきたちて見えし由、中島文平此人の風を書く。も一人は森源蔵とて細川様の家来也、渡邊とはうらはらにて、筆耕の時は、甚だよく見えながら、ほりたる後引立たざりし。此後佐太郎明朝行はる、森谷佐太郎といふ彫師のはじめしものにて、この風は蓮池(四谷津の守坂近所)に住める松久粂蔵伝へたり。川村明朝は川村某はじめしものにて、入谷の安井台助この風を彫る。安井の忰川田弥太郎も亦明朝彫也、又清八さんの明朝といふは篠原清八明朝彫にて、一流あれば斯くいふなり。此人先代安田〈ママ〉六左衛門の子也。この安田〈ママ〉六左衛門は、天神山といひ麹町平河町住、名高き筆耕彫にて、群書類聚の板も此人の手に成れるとぞ。此の外酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなど、皆明朝彫りをしたるなり云々、大正十一年七月四日生田可久君話。〈299-300頁〉

先日「三村竹清日記の『演劇研究』翻刻掲載状況と個人的な願望」に記した通り、今のところ竹清の日記「不秋草堂日暦」から「午後生田君来 板木師伝草稿置いてゆく 夕くれまで話してゆく」という短文を超えて、生田の話の中身を当時記したものを見つけることが出来ていない。

また、「洞津の安井文哉老人の話」というのも、三村がいつ頃どのように接したものか、日記から見つけ出すことは出来ていない。


源蔵明朝云々の話は、竹村真一『明朝体の歴史』(思文閣出版、1986)の「第8章 明朝体の代表的な書風と刻師」の「第2節 刻師仲間の慣習語」(169-172頁)にも記されている。当該節は「一、続文章規範纂評と爪つき明朝体」「二、鯖の尾といなご尻」「三、書者名つきの明朝体」「四、版木師」という4項目で構成されており、「三、書者名つきの明朝体」がそれだ。

竹村『明朝体の歴史』の本文周辺で直接的に明示されてはいないが、巻末の参考文献リストと本文テキストの内容から考えれば、これは上里春生『江戸書籍商史』(出版タイムス社、1930〈のち名著刊行会、1965:『明朝体の歴史』はこちらを掲載〉)の「筆耕」の項(173-181頁)を整理し肉付けしたものと考えて良いだろう。

『江戸書籍商史』の「筆耕」の項から後半(180-181頁)を抜き書きしておこう(原文は旧字旧かな)。

扨て、版本の書風に明朝といふ書風のあることは誰れしも知るところであらう。これに爪つき明朝といふのがある。とは古銭家の言葉であるが、それは安南の爪正隆手の書と同じく、文字が筆の当り鈎のやうになつて居るのをいふ、版木師仲間では明朝の横画の筆の押へを鯖の尾と呼び、縦画の筆の納りをいなご尻といふさうである。
この明朝といふ書風は初めの程は例の唐本風であつたが嘉永の頃に至つて源蔵明朝といふ二種類の書風が現れた。即ち一つは医学館に専属してゐた渡邊源蔵が始めたもので、他の一は細川家の家臣森源蔵が書いたもの。渡邊の住ひは瀬戸物町の鰹節屋の後であつたが此の人の作風は筆耕の時は拙劣に見えたけれ共彫り上げとなると非常に引立つたといふ。一方森源蔵の方は筆耕の時はよく見えながら、彫り立ては左まで引立たなかつた。あべこべの作風で対立してゐたものである。
この後にまた、佐太郎明朝といふのが行はれた。森谷佐太郎といふ彫師の創めたものである。この風を継承したものに、松久粂蔵といふ人があつた。
又、川村明朝といふのは川村某が創めた書風で、これは入谷の安井台助といふ彫師が承け継いだ。安井の子の川田弥太郎は勿論この風である。
更に清八さんの明朝といふのは、篠原清八郎の明朝のことで、此の名があつた。この清八郎は宮田六左衛門の子である。宮田六左衛門は天神山といひ、平河町住ひで塙保己一の「群書類聚」などの筆耕ほりとして有名な人である。
なほ此の外に酒井勝太郎、亀井戸の粂さんなどといふ明朝彫りの名手達があるが、これは彫師の方の話しに脱線する虞れがあるから此処らで筆耕に関する乏しい記述は止めやう。

出版タイムス社版の『江戸書籍商史』と名著刊行会版の『江戸書籍商史』、どちらも文献リスト等気の利いたデータが掲載されておらず――名著刊行会版は原本を影印復刻しただけで解説等を加えたりしてはいない――断定はしないでおくが、略歴から考えて上里自身の体験や直接取材によって書かれたものではなく、少なくとも当該箇所は三村竹清の著作をリライトした内容である蓋然性が高いと思われる。


大正11年7月4日に生田が三村に語ったという「明朝といふ書風其初は唐本風なりしが、漸く日本化して、嘉永の頃源蔵明朝といふが起これり」と始まる話について、「唐本風」だったと言われる頃の書風がどういうものを指すのか、また「漸く日本化し」た頃の書風がどういうものを指すのか。「爪付き明朝」の話題で「常の活字の書風」と書いているように、三村竹清は「漸く日本化し」た頃に「〇〇明朝」と呼ばれていたという書風を我々が現在思い浮かべる明朝体と同様の書風だと考えているようだが、生田が話したところがどのような意図であったか。また幕末に「源蔵明朝」などという呼び名が本当にあったのだとして、その書風が、嘉永3年に発行された錦林王府木活字版『唐鑑』刊語で言われる仏典字様に対する明朝様(書写体)ではなく「常の活字の書風」であると考えていいのかどうか。

嘉永の頃に刻まれたという「書者名つきの明朝体」が具体的にどういうものだったのか、手がかりが見つからないだろうか。

丸山季夫『刻師名寄』(吉川弘文館国学者雑攷別冊」、1982)が、三村の「洞梅録」に基いて明朝彫の字彫り職人として渡辺源蔵らの名前を掲載している。三村が記した生田の話に出てくる順に、拾ってみよう。

【渡辺源蔵】明朝風の彫師。明朝といふ書風は初は唐本風なりしが、嘉永の頃、源蔵明朝と云ふが起れり。源蔵といふ人二人あり。一人は渡辺源蔵とて、医学館に出たり。家は瀬戸物町の鰹節屋イのうしろと聞く。此人筆耕のときは拙く見ゆれど、ほり上げては非常にひきたちて見えし。中島文平此の書風を継承す(洞梅録、集古甲子第三、生田可久談、大正十三年)。〈「名寄」179頁〉

以下同様にして、中島文平(121頁)、森源蔵(158頁)、森下〈ママ〉佐太郎(158-159頁)、松久粂蔵(148頁)、安井台助(159-160頁)、川田弥太郎(60頁)、篠原清八(92頁)、酒井勝太郎(88頁)、亀井戸の粂(59頁)の名が洞梅録からとして拾われており、安田六左衛門だけは『刻師名寄』に名が見えない。

鈴木淳「板木師井上清風の刻業」(『近世文芸』49号、1988、PDF〈jstage〉)が「丸山氏の「刻師名寄」の功績として瞠目すべきは、各刻工について、その刻字した書目を掲げること」(49頁)と記しているように、『刻師名寄』において三村「洞梅録」から名前が拾われた筆耕師・彫師のうち、刻字した書目が併記されている者がいる。

【安井台助】川村明朝は川村某の創案にて、入谷の安井台助此風を彫る。安井の忰、川田弥太郎も亦明朝ほり也。(洞梅録、大正十三年集古甲子第三、生田可久談)

鎌倉武士
南新二戯作。彫刻者。東京市下谷区阪本村七一番地〈ママ〉安井台助、明治三十二年〈ママ〉十二月二十六日発行和田篤太郎、定価三十五銭。東京大学図書館蔵。(杉村英治氏示教)

東大図書館蔵書の現物を見たわけではないが、OPACの書誌を見る限りこれは明治23年(1890)に春陽堂から刊行されたもので、国会図書館デジタルコレクションや近代書誌・近代画像データベース(高知市民図書館・近森文庫蔵本)で奥付を見ることができる。

確かに東京市下谷区阪本村廿一番地の安井台助が彫刻者として示されている。彫刻者として併記されている五島徳次郎(徳二郎)も『刻師名寄』に立項されていて、五島の関係書目に『鎌倉武士』の書名は無いが、『省亭花鳥(美術世界第25巻)』(春陽堂明治27年)、『美術世界第二輯』(春陽堂明治23年)、そして『日本勝景初篇』(東陽堂、明治26年)が挙げられている。『鎌倉武士』において、絵を後藤、字を安井が彫るといった役割分担でもあっただろうか。ちなみに『鎌倉武士』本文の版下筆耕を誰が務めたかは判らないが、「明朝体」ではない。

【川田弥太郎】安井台助の子。明彫をよくす。

椿山画譜
二冊。明治三十三年九月三日発行。編輯発行者吉川半七。彫刻者川田弥太郎、下谷区入谷町二十四。印刷者藤浪銀蔵、向島寺町島林一九八五。(国会図書館上野本、三康図書館にもあり。木村八重子氏示教)

国会図書館デジタルコレクションで奥付(1)(2)を見る限り、確かに東京市下谷区入谷町二十四の川田弥太郎の名が彫刻者として掲げられている。ただし『椿山画譜』は文字通り画譜であって「明朝体」の文字とは全く関係が無い。

【酒井勝太郎】明朝彫師。(洞梅録、集古甲子第三、生田可久談)

龍吟遺珠
著作者、旧西条藩主上田恪之助、出版人、東京府華族松平頼英、明治十三年九月鐫、彫龍閣蔵梓、東京飯倉片町二十五番地酒井勝太郎摹刻。(木村嘉次氏示教)

国会図書館デジタルコレクションで同書を見る限り酒井が「東京飯倉片町二十五番地」居住であったかどうかは不明だが、奥付には確かに「酒井勝太郎摹刻」と記されている。摹刻(模刻)とある通り、上田恪之助の様々な書体による本文と、「草川重遠書」である跋文の、各々の書風をしっかりと写し取るように彫刻されたものなのだろう。残念ながら「明朝体」の文字とは全く関係が無い。


国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベースの詳細検索項目「レコード全体」で安井台助(臺助)の名を検索してみると、前掲『鎌倉武士』の他、次の書目に見えるようだ(一部、奥付画像から安井の所在情報を補い、また国会図書館デジタルコレクションで閲覧できるものについては#ndldigitalのリンクを追加した)。

また西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースを経由すると、更に3点ほど安井の名が見える。

こうして見ると、「浮世絵文献資料館」の浮世絵辞典「彫師」で紹介されている永井良知編『東京百事便』(三三文房、明治23年)の「木版」の項で「書画共に彫刻するも就中細字に長せり」と書かれている安井台助評が簡にして要を得た同時代評なのだと思われる。彫刻する文字の書風について、明朝彫り云々ではなく、どのような書風もこなし、とりわけ細字(細かく小さな文字)が得意だ、ということだ。

近代書誌・近代画像データベースの詳細検索項目「レコード全体」で、川田弥太郎の名はヒットせず、酒井勝太郎は西島青浦・高森有造編『書画名器古今評伝』(岩本忠蔵、明治31年#ndldigital)に「彫刻兼印刷者 酒井勝太郎 本郷区湯島新花町三十四番地」として見えている。酒井もまた明朝彫り云々ではなく、版下の筆意を生かした字彫りが達者である、という者では無かったろうか。


なお、先ほど「安田六左衛門だけは『刻師名寄』に名が見えない」と記したが、「塙保己一「群書類聚」などの筆耕ほりとして有名な人」であれば、その名は安田ではなく宮田六左衛門である。「宮田六左衛門」の名は、携わった書目と共に記されている(丸山季夫『刻師名寄』153頁)。

【宮田六左衛門】六左衛門は昭和四十年七月十一日年八十歳で歿した。長太郎まで十一代あり、群書類従を刻りしは五代前川氏(版木師)に養子となりしと云ふ。

【同六左衛門七代】宮田連行(ツレユキ)、天保八年酉四月二十九日歿、葬麻生本村町称念寺、江戸名所図会を彫る(木村嘉次氏稿、印刷時報)。長男清八、明朝体をよくせしも御家人篠原の株を与へられて職を廃す。八代六左衛門三男清次は早く歿し、二男常次郎九代となり後之行と改む。明治六年文部省に入る。文化十一年生、明治十年歿、年六十四(木村嘉次氏稿、印刷時報)。

七代目宮田六左衛門の長男で後に篠原姓となる清八が彫ったことが明らかであるような資料は見えないので、書目は省く。

七代目宮田六左衛門の長男清八が「明朝体をよくせし」逸話が、木村嘉次「字彫り版木師を語る」(上:『書物展望』5巻9号〈1935〉、下:『書物展望』5巻10号〈1935〉、後に「江戸の字彫り版木師たち」として『字彫り版木師木村嘉平とその刻本』〈青裳堂「日本書誌学大系13」、1980〉に収録)に掲載されている。以下「江戸の字彫り版木師たち」49頁より(原文は旧字旧かな)。

この長男を清八といひ、器用に彫刻した。時には胡麻竹に小身を入れて彫つたともいふ。或年の夏、父親に叱られて家出し、玉子を売歩いた。しかしくだらなくなつたので、佐内坂の朝倉伊八の店へいつて、使つて呉れといつた。今のやうに世智辛くないから、
「うん、おいて上げよう。だがどこで習つたかね? ま、一つこいつを彫つてみせて呉んな。」と伊八は何か字を書いて出した。
清八はこれを明朝で鮮かに彫つてみせた。伊八は明朝をかう巧みにやる者はほかにちよいと考へつかないので、さてはと思つて、
「さうですかい、平河町の、噂に聞いた清八さんですね。」と看破つて笑つたといふ。

「江戸の字彫り版木師たち」冒頭(43頁)には、次のように書かれている。

維新直後版彫りを始めて、今日まで生きながらへてゐる者は僅に十代宮田六左衛門と川澄金彌の二翁に過ぎない。既に書いた通り、六左衛門翁は今年八十三、金彌翁は七十五の老年であるが、共に仲々強記である。これを書くに当つて、この二人の尊敬すべき剞劂の、日頃の詳細な談話に負う所の極めて多かつたことは勿論である。殊に、六左衛門翁が「御府内版木屋見聞録」なる筆記を快く借覧させて呉れたことは、私の貧しい知識を富ますに十分だつた。

実は生田が語った「明朝ほり」の話は、十代目宮田六左衛門からの又聞きなのではないかと思えてならない。


大正11年7月4日に生田可久が三村竹清に語ったという「明朝ほり」の話に出てくる彫工たちの仕事そのもの、あるいは確実な同時代評で、「これは確かに現在の我々が思うのと同じ明朝体の話である」と言えるようなものに、どうにも出会うことができない。

この「明朝ほり」の話は上里春生『江戸書籍商史』を経由して竹村真一『明朝体の話』「三、書者名つきの明朝体」に伝わっているのだけれど、優れた補強材料が現れない限り、少なくとも「明朝体の」字彫り/剞劂/彫師/彫工/刻工/彫刻者*1の話としては、いったん忘れた方が良いように思える。

*1:この職能が刊本に記載される際、「剞劂」「彫師」「彫工」「刻工」「彫刻者」のどれかで書かれるか、または「〇〇刻」「〇〇鐫」と表示されることの他に、表記事例があればご教示ください。

三村竹清日記と『本之話』に見る字彫版木師の標準単価の話

先日「大正11年7月4日来話」とだけ記した生田可久からの聞き書きの件とは別に、やはり「大正11年春」に生田から聞いた話として三村竹清が『本のはなし』に書き残している話題がある。『三村竹清集2』では同書90頁に掲載されている、「文字ほり」と題された話。

生田可久君からの話に、此頃板木師の手間を一時間一円といふ規定にするといひたれど、さうもまゐらず、とうとう八十銭手間ときめる、字ほり一時間四字のよし、老板木師は嗤ひて、むかしの筆耕ほりは一時間二十三字は常のことなりしといひき、今小梅の木鏸(鈴木)*1といふが文字ほりの上手とぞ。大正十一年春のことなり。

この「文字ほり」の話は、早稲田大学演劇博物館紀要『演劇研究』29号(2006.3)に掲載された三村竹清日記「不秋草堂日暦(14)」(三村竹清日記研究会)の「大正11年3月起」の分に記されている。中野三敏が『師恩 忘れえぬ江戸文芸研究者』(岩波書店、2016)冒頭に「現存本は全冊巻頭に一、二丁分の内容細目が、それも蒙求題ふうに、筆者自身の手で奇麗に五字題にまとめて列記される」と記している通り、当該の日記には「板木師之手間」という題がつけられていた(「不秋草堂日暦(14)」218頁)。

「板木師之手間」と題された話は、大正11年春、4月18日の日記になる(「不秋草堂日暦(14)」234頁)。

午後生田君来 この頃板木師は一時間一円手間といふ規定をするとて とう〳〵八十銭ときめる 文字ほり一時間に四字のよし 老板木師はわらひて むかしは筆耕ほりは一時間二十三字のものゝのよし 今 小梅に木鏸(鈴木)*2といふ文字ほり上手のよし云々

こんな風に、『ほんのおはなし』や『本のはなし』の聞き書きが、竹清日記に記されているところと符合するものは、どれくらいあるものなのだろう……


大正11年春というと、徳永直に本木昌造伝を託した三谷幸吉が、印刷労働者の組合である神戸印刷工組合を経営の主体とする印刷会社の「神戸印刷工株式会社」を設立した時になる。

この活版印刷の方では築地活版、秀英舎、国文社など大手印刷事業者を中心として明治23年12月「東京活版印刷業組合」が設立されて以降、大阪、名古屋など地域単位の同業者組合が成立して久しい。明治末から大正初期の頃には、各印刷業組合が標準料金を定めて需要家に対して互いに安売りしないよう協定を結ぶ動きが盛んになっている。大正6年頃から9年頃には、第一次世界大戦の影響によるインフレに対応するため、標準印刷料金が毎年「〇割値上げ」要求されていたようだ(この項は『京橋の印刷史』年表によるもので、他日丁寧に裏付けておきたい)。

印刷業の経営層と労働者との間では明治末から大正初期にかけて賃上げ要求のストライキが発生する情勢になっていて、大正11年というのは、徳永直『太陽のない街』に描かれる共同印刷争議の前夜といった頃合いだ。

明治末から大正の頃、川瀬巴水や吉田博といった版画家たちによる新版画の活動があったことは理解しているが、大正半ば過ぎに文字ものの版下を彫るという需要がどれくらいあったのか。また(文字ものの)彫刻師たちによる同業者組合といったものが組織されていたのかどうか。背景が色々と判らないことだらけ。

*1:引用文中の「(鈴木)」という部分は割注式に文字組されている。

*2:引用文中の「(鈴木)」という部分は割注式に文字組されている。

仏典字様の活字と明朝様の活字

天理図書館の館報『ビブリア』87号(1986)に掲載された、岸本眞実「近世木活字版概観」に、ちょっと気になる話題が記されている(83頁)。

錦林王府(聖護院門跡)の木活字版『唐鑑』も、私家版に属するものであろう。

この王府に伝来した活字は、仏典の字様のものが僅か四千余であったので、明朝様の活字を補雕した(第一冊刊語)と言う通り、書中僅かに筆写体のものが散見される。

錦林王府木活字版『唐鑑』は、『大阪府立図書館蔵近世木活字本目録』に掲載されている通り同館石崎文庫にあり、「おおさかページ」の「近世木活字本」における「主な資料」には挙げられていないが、「おおさかeコレクション」で閲覧可能になっている。ありがたい。

「おおさかeコレクション」の『錦林王府活板唐鑑』12コマが、問題の第一冊刊語になる。

王府舊藏活字印若干千字皆佛典字
様今所存者僅四千有餘逸失頗多不
可以爲用也此册子一仍舊貫省補不
足字凡爲明朝様者皆屬
法王之新補云

なるほど、『大阪府立図書館蔵近世木活字本目録』24頁に「第一冊第七丁」として採られた刊語がほぼその通り記されているのが判る(「目録」では原文の改行は無視され、末尾の「云」は省かれている)。

文字の種類として「若干千字」、同一字種の重複分を含めて四千本の活字が伝存しているが、それでは文章を印刷しきれないので新しく彫った活字を追加して今回の印刷に用いる、という話。

今の我々が「明朝体」と呼びたい字様(書風)の活字が「佛典字様」と呼ばれ、同じく(ちょっとヘタれた)楷書あるいは「筆写体」と呼びたい字様(書風)の活字が「明朝様」と呼ばれているところが面白く、また悩ましいポイントだ。

天保壬寅(1842)年に校訂布字と扉に記され嘉永3(1850)年に発行されたと刊記にある『錦林王府活板唐鑑』の刊語は、19世紀半ばの日本における印刷文字の字様に対する一般的な見方を示しているのか、王府=聖護院門跡の旧蔵活字であるという特殊事情が伝来活字の字様を「仏典字様」と呼ばせているものなのか。

また筆写体の「明朝様」という呼び方は、和様に対する唐様という程度の意味合いで「明朝様」と呼ばれているものなのか、唐様の書風の中でも「欧体」「柳体」「顔体」などのように何か特有の書風を示すラベルであるのか。

さて。


なお、この『錦林王府活板唐鑑』の活字字様については、堀川貴司「漢籍から見る日本の古典籍 ―版本を中心に―」(『国文学研究資料館調査研究報告第34号 』〈2014〉講演録として収載〈http://doi.org/10.24619/00001031〉)の中に、注15として次の記載がある。

聖護院宮蔵版、嘉永3年(1850)刊木活字版『唐鑑』には、同宮旧蔵の活字で足りないものを新たに作ったとの記述が前付にあるが、明朝体の旧蔵活字を「佛典字」、写刻体の新補活字を「明朝様」と呼んでいる。幕末ではあるが、明朝体黄檗版によって普及したことの傍証であろう。なお同書のことは古書画店「北さん堂」のホームページにより知った(http://the-man.info/1408、2013年9月16日閲覧)

北さん堂のウェブサイトは2021年10月現在も健在だが、当該の記事は同サイトにも、ウェブアーカイブ等にも見当たらない。どのような紹介記事だったのか、知りたかった……。