日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

築地ベントン活字その他

2015年に刊行された『タイポグラフィ学会誌』08号に掲載された研究ノート「大正・昭和期の築地系本文活字書体」の段階で「今後の課題」としていたことに関連して幾つか調査が進みつつあることについて、ツイッター等で書き散らしてきた事柄を、中間報告としてここにまとめて残しておく。

東京築地活版製造所のベントン活字

印刷雑誌昭和8年5月号の雑報欄(60頁)に掲載された「築地活版の細形九ポ」という記事が矢作勝美『明朝活字の美しさ』251頁に抜粋紹介されているのだが、ここに全文を掲げておこう(漢字は新字体に改めた)。

京橋区築地、東京築地活版製造所は、近来小型活字の字体の華奢なるものが多く愛好さるゝ傾向にある点に鑑みて三四年以来細形九ポイント活字の新刻に努力中であつたが、こゝに約八千五百の字数を完成し広く発売することゝなつた。本活字書体は、本号広告欄に掲載の通り従来の築地型と秀英型の各特長を取入れた優美温厚な風格のもの。同社では、更に平仮名につき一段の改良を加ふるため、ベントン彫刻機により再刻中であるが、本活字普及のため、此際実費鋳込替の需めに応ずる筈である。

タイポグラフィ学会誌』08号刊行後に印刷博物館が所蔵していると判明し閲覧させていただくことができた『昭和11年1月 細形九ポ活字総数見本 全』(資料番号58882)の平仮名と、いま手元にある東京築地活版製造所『昭和11年5月 改正五号活字総数見本全』http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/Tsukiji-5go-S11-Specimenbook.htmlを比べてみると、全字種が同一縮尺で骨格一致の状態なので、これはつまり「ベントン彫刻機により再刻」された結果、昭和11年見本帳の五号と9ポ(の少なくとも平仮名)が同一の原字パターンに基づいて制作されたものだと考えて良いだろう。

小宮山博史コレクションの昭和4年版9ポイント総数見本の書風は印刷図書館所蔵の明治39年版9ポイント総数見本を受け継ぐ(仮称)「築地電胎9ポ」型であり、また「大正・昭和期の築地系本文活字書体」にも記した通り昭和7年初版発行の中村達太郎『給水給湯及消火設備』などに新しい書風の9ポイント活字が使われていることが観察されているから、昭和4年以降新しい書風の本文活字開発に注力していたという記述(「三四年以来細形九ポイント活字の新刻に努力中」)に間違いは無さそうだ。

今井直一が(築地活版はベントン彫刻機を用いて)「解散するまで、かなや数字を彫刻した」と書いているのは故なきことではない。「かなや数字を彫刻したのみで、明朝漢字には成功しなかったようである」かどうかは、ふたつの昭和11年見本帳によって、もう少し追試を試みたい。

全ての漢字を対象にしなくとも、小宮山博史明朝体、日本への伝播と改刻」〈『本と活字の歴史事典』〉344-347頁に掲出されている比較対照用216字から20字程度を選んで比べてみようじゃないか――と思っていながらも、なかなか手をつけることができないまま、2年以上経過してしまった。

二瓶義三郎の凸版ベントン仮名

凸版印刷オリジナルの明朝体は、「そ・さ・き」を特徴と言うために昭和30年代が出発点に置かれている。これは凸版印刷が(二瓶義三郎を担い手として)自社開発した本文用活字書体という視点で見ると初代ウルトラマンのマスクで言う「C型」に相当し、〈二瓶氏の書体〉の使用開始時期、つまり初代ウルトラマンのマスクで言う「A型」の登場は、昭和21年だと思っている。2018年に連続セミナー「タイポグラフィの世界」シリーズ6「金属活字考」の、「日本語活字を読み込む」で配布した資料に掲示したものを、一部、再掲してみよう。

凸版印刷は築地活版が上述の「ベントン」世代の活字を使い始めて以降も従来型である築地電胎系の活字書体を使い続けていた。『文藝春秋』の本文においても同様で、昭和21年8月号までは下図の通り8ポも9ポも築地電胎系で印刷されている。

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文藝春秋』昭和21年8月号の本文活字(築地電胎系)

これが、『文藝春秋』昭和21年9月号から、仮名書体が最も初期の〈二瓶氏の書体〉と言うべきものに切り替わる。

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文藝春秋』昭和21年9月号の本文活字(最初期の二瓶=凸版書体)

ちなみに漢字については11月号から「人」などに改刻があるように見えるが、詳細には調べていない。

文藝春秋』の昭和23年の号には9ポイント活字の用例が見えないので8ポ以外の展開状況が十分には分かっていないが、昭和24年4月号から、9ポおよび10ポも、この最初期の二瓶=凸版書体になっており、また同8月号から、12ポもこの書体に切り替わっている。

このまま『文藝春秋』の観察を続けていくと、昭和32年4月号までは最初期二瓶系のままだが、5月号から8ポのみ「な」の字がイワタオールド風になるなど一部の仮名でデザイン変更が施されている。仮にこれを「二瓶系B型書体」と呼んでおこう。

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文藝春秋昭和32年5月号の8ポ活字(二瓶系B型書体)

文藝春秋』では、昭和34年12月号まで、8ポがこの「二瓶系B型書体」で、9ポなど他のサイズは最初期のもの(仮に「二瓶系A型書体」と呼ぶ)のままである。

そして、昭和35年1月号から、「き」「さ」などの脈絡を取り去った「新二瓶系」に切り替わるのだが、8ポは「二瓶系B型」をベースにして「そ」「き」「さ」に手を入れたもの、9ポなど他のサイズは「二瓶系A型」をベースにして「そ」「き」「さ」に手をいれたものとなっている。

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文藝春秋昭和35年1月号の「新二瓶系」凸版書体

こうして、1971-73年(昭和46-48年)頃に刊行されたものと推定される凸版印刷組版ハンドブック』(印刷博物館蔵)の8ポと9ポの違いが生じていて、昭和40年頃に凸版が印刷した〈本文が8ポじゃない本〉を見ると「凸版書体風なのにどこか見慣れない感じ」に見えることとなった。ベントン活字なのに。

ちなみに昭和21年というのは凸版印刷が解散の危機を迎えていたような時期であり、新書体の開発に注力できる状況では無かったのではないかと思われる。凸版印刷に並ぶ大印刷会社である大日本印刷によるベントン活字書体自社開発の記録である昭和26年の『技術月報』が片塩二朗『秀英体研究』598-606頁に紹介されていて、その「年譜」によるとベントンそれ自体の運用方法など基礎的な準備に2年を要し、以降昭和23年11月の最初の試刻から「かな書体検討」「試刻漢字検討」等を経て活字書体の決定までに更に1年半、最終的に「8P彫刻完成(鋳込完了とともに実用化す)」が昭和26年9月とされている*1。つまり、大日本印刷では実質的な新活字開発のスタートから開発完了まで、ほぼ丸3年が必要だったわけだ。

佐藤敬之補による覚書を眺めつつ、二瓶義三郎氏は築地活版のベントン活字開発最終盤まで在籍し続けていてその経験と「やり残した宿題」を抱えて昭和13年に(築地活版の解散により)凸版印刷へと移籍したのではないか、そして戦時下の凸版印刷で新書体の開発を黙々と続けていたのではないか――と想像しているのだが、確認することができていない。

印刷局による康煕字典体ベントン活字など

印刷局五十年略史』などには、明治45年にアメリカから活字母型彫刻機を導入して「康煕字典の文字を写真により縮写した」「字画正確書体鮮明」な「9ポイント活字」を作成したと書かれており、『印刷局長年報書』などが大正8年1月4日付の出来事として官報の活字を従来の五号活字から康煕字典に基づく9ポイント活字に切り替えたと記している

国会図書館デジタルコレクションで大正7〜8年の官報等を確認していくと、号外を含めて官報の体裁が変わるタイミングは大正7年12月27日付「衆議院第41回本会議第1号」からだったということが2SC1815J氏によってつきとめられていて、よく見るとこれが印刷局による康煕字典体(9ポイント)ベントン活字の初出用例となるようだ。

印刷局「五十年略史」や「七十年史」などが「康煕字典の文字を写真により縮写した」とだけ簡単に記している康煕字典体活字のベントン原字作成について、『印刷局研究所調査報告』第12号32頁が、原字作成のため写真撮影により36倍に拡大した康煕字典の漢字の輪郭を「紙の裏から鉛筆でなぞる」手法だった従来の工程を大正3年9月から「透過性のある紙を作成し表からなぞる」手法に切り替えた――と、少し詳しく記している。今のところ、更に詳しく記録した資料を見つけ出すことは出来ていない。

印刷局でのベントン活字開発を主導した小山初太郎が「明治40年(1907)に欧米視察へ旅立ち、そのとき米国活字鋳造会社においてベントン母型彫刻機の実習を受けて帰国した」と矢作『明朝活字の美しさ』237頁に記されている件について、直接的な典拠はまだ発見できていないのだが、明治40年度の事績を記す『印刷局第34回年報書』には記載が見えない小山らの外遊に関して大正6年の『印刷局沿革追録』には明治40年4月9日に小山初太郎と矢野道也が「印刷事業調査ノ為欧米各国ヘ出張ヲ命セラ」れたこと、そして翌41年2月17日に「欧米各国ヘ出張ヲ命セラレタル活版部長技師小山初太郎製肉課長技師矢野道也帰朝ス」との記述があることから、「欧米各国」へ9~10か月ほど出張していたことは間違いないものと思われる。

*1:中央公論』での観察によると昭和25年3月号までが旧8ポ仮名で、同4月号から新8ポ仮名が使用されており、また11月号までは旧活字の漢字、12月号から新活字の漢字に切り替わっているようだ。これは編集部の了解の元に実施された「本番テスト」だろうか。