日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

石井「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字」に寄す

*1

印刷博物館所蔵の活字見本帳を活用した「国語×活字問題」――活字で刷られるところの日本語表記に関する問題――の研究成果として、石井久美子「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字 ―外来語定着の一側面―」という論考が書かれていたことを先日知った。

http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/60851/1/06+%E7%9F%B3%E4%BA%95.pdf

仮名付活字というのは、新聞・雑誌が本文を総ルビとしていた時期に、組版の効率化を図るために親文字とルビを一体化して作った活字である。そのため「使用頻度の高い」「固定化している」表記の手がかりとなるはずで、「活字見本帳の(カタカナ)ルビ付き活字から、当時求められていた外来語の様相を知ることができる」と着目されたものだ。

国語文字・表記史の観点から、「仮名付」活字見本帳をこのように見ることができるのだ、と教えられた。


従来、活字見本帳類の書誌として、例えば板倉雅宣『活版印刷発達史』(asin:4099175153)巻末では、次のような記載が試みられている(ごく一部表記を改めた)。

桑山弥三郎氏蔵『新聞用九ポイント半(小型五号)総數見本 全』(東京築地活版製造所)大正5年6月改正、46頁、223×150mm、大正11年8月印刷
漢字7,860字、ゴチ、印物、1/2約物、1/4約物、5ポかな
桑山弥三郎氏蔵『七ポイント假名附書体見本 全』(東京築地活版製造所)昭和5年5月改正、50頁、235×161mm
(内容注記無し)
桑山弥三郎氏蔵『新聞幷雑誌用七ポイント假名附書体見本 全』(東京築地活版製造所)昭和10年8月改正、50頁、229×157mm
漢字10,350字、二倍合字

今後我々が「仮名付」活字見本帳の書誌を採る場合、石井氏の視点を導入し、(康煕部首順で整理された)「ひらがなルビ付」活字と、(いろは順で整理された)「カタカナルビ付」活字の双方があるのか無いのかといった注釈も記載するようにしたい。

なお、石井氏が取り上げた昭和4年版の秀英舎『九ポイント假名附活字見本帳』(印刷博物館所蔵)にカタカナのルビが含まれ、同じく昭和4年版の秀英舎『七ポイント假名附活字見本帳』にカタカナのルビが含まれていないことの理由となる筈の補足的な情報なのだけれども。

  • 昭和4年というのは、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で示した通り、新聞各紙が本文活字を7.5ポイントから7ポイントに切り替えていく、そうした端境期にあたる。
  • 実は、各紙が7.75ポイントや7.5ポイント活字を本文に使用していた大正10年頃、新聞で使用する漢字の種類を「常用」漢字に制限しようという運動があり、大正12年8月6日付で新聞社・通信社の「常用漢字尊重」共同宣言が出されている。
  • この運動を主導した中心二社のうち東京日日新聞では大正11年3月16日から漢字制限が開始、同じく報知新聞では同年4月1日から例えば「独逸」を「ドイツ」と表記するようになっている(見出しを除く本文表記)。この頃の各紙が当て字をカタカナに開いていく様子は、神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」などで確認することができ、概ね大正期のうちにカナ開き化が完了する。
  • 月間総合誌は大正一桁まで主要記事を五号、サブ記事を六号活字で組んでいたが、例えば『中央公論』の場合、大正8年から記事全体を9ポイント活字に切り替えている。
  • 9ポと8ポの併用になっていく時期は十分に確認できていないが、8ポイント一辺倒になっていくのは敗戦後の用紙難の時代が始まり。

こうした関連諸分野での論考の前提として用いられるべき基礎資料を我々近代日本語活字史研究者が十分に提供できていない、この状況を二重三重にお詫びしたい。


なお、秀英舎の「仮名付」で現存する見本帳としては、本家本元である大日本印刷が、推定明治45年刊『明朝五號假名附活字摘要録』(カタカナなし)、大正15年刊『七ポイント七五假名附活字見本帳』(カタカナあり)昭和4年刊『七ポイント假名附活字見本帳』(カタカナなし)を所蔵している模様。

桑山氏も築地活版だけでなく秀英舎のものを多数お持ちであろうと思うが、辿れる伝手を持たないため未確認。

大正3年に刊行された秀英舎の総合見本帳には「九ポイント半假名附」も掲げられており、もしも総数見本が現存していて「カタカナルビ付」が含まれていたなら、大正3年から昭和4年の間に至る「カタカナルビ付」キャラクタセットの変遷の有無が確認できる。


ところで、石井氏の論考では「ルビ付活字」に関する「先行研究」として矢作勝美「活字のはなし15 ルビ付活字」(『ちくま』127号)から次の箇所が引かれている。

とくに、明治の末から大正にかけて新聞の情報量は増量の一途をたどり、小さな活字をもってこれに対処したことから、大正八年には六・五ポイントの新聞用活字が出現した。くわえて、新聞製作のスピードアップは至上命令である。
ルビ付活字は、煩雑な組版作業をできるだけ避けるため、漢字の右傍らにルビを付けた母型を作り、それによって鋳造したもの。大正二年、築地活版所の六号ルビ付がその最初で、その後七・五ポイント、更に秀英舎などの九ポイント、八ポイントがあり、広く新聞、雑誌に利用された。これは新聞の過当競争が生んだ活字の知恵といえなくもない。しかし、書籍を対象にした四号、五号活字にはこうした現象は見られなかった。

最初期のルビ付活字が明治30年頃の大阪朝日(の五号活字)であろうというのは、石井氏も指摘する通り。これは自社で活字を作っていた大阪朝日のような新聞社だからこそ可能だったもので、例えば青山進行堂『富多無可思』(明42)に「仮名付活字」が掲載されていない状況から、活字ベンダーがルビ付活字の製造販売を開始するのは明治末頃と考えて良いように思われる。
「明治の末から大正にかけて新聞の情報量は増量の一途をたどり、小さな活字をもってこれに対処した」という状況の実態は、「新聞活字サイズの変遷史戦前編暫定版」で示した通り。
矢作「活字のはなし15 ルビ付活字」が「大正八年には六・五ポイントの新聞用活字が出現した」と記しているのは、矢作『明朝活字』149頁あるいは矢作『明朝活字の美しさ』236頁に「さらにまた大正八年五月になると、字母宗母型製作所から新聞用六号代用として六・五ポ、また、字母長母型製造所においてはすでに大正七年八月、八ポおよび同ルビつき、一二ポ、二四ポの完成をみていたが、大正八年五月にいたり、六ポ、七ポ七分五厘および同ルビつき、一一ポ二分五厘、一五・五ポ、二三ポ二分五厘、三一ポといった活字を発売している。いずれも新聞むけのものである」と詳述している事柄の反映である。
これはおそらく『印刷世界』に掲載された活字発売広告――『日本印刷界』には出稿されていない――を参照した記述であろう。「ちくま」の記述では大正8年の段階で「6.5ポイントの本文活字」が出現しているかのように読めてしまうが、実態はそうではない。この段階では、商況欄(株価)のような特殊な場面で用いる小型活字である(昭和15年の段階で本文活字が6.3ポイント相当になるのだが、20年以上後の話)。
日本語表記史に関心をお持ちの方にとって、上述した大正末の漢字制限(とそれに伴うカナ開き)はおそらく常識に属する事柄と思うが、そうであろうからこそ敢て、「大正八年には六・五ポイントの新聞用活字が出現した」のは商況欄を主目的とした小型活字であって本文活字ではない、総ルビで記されていた本文活字は昭和3年以前の段階では7.0ポイントより大きい、と繰り返し記しておく。

*1:本項のタイトルは《石井久美子「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字」に寄す》としたかったところ、はてなダイアリー仕様の字数制限により《石井「『九ポイント假名附活字見本帳』に見るルビ付き活字」に寄す》としたもの也。