日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

芥川賞・直木賞原稿コレクション展を見て

つい先日、山下浩『本文の生態学』(asin:4888882061)を読んで

漱石の『坊っちゃん』『吾輩は猫である』や鴎外『舞姫』の他に、実際の印刷に使われた痕跡が認められる自筆原稿用紙は、どのくらい知られているのだろう。

――というようなことを書いていた矢先、タイミングよく日本近代文学館で秋の特別展「芥川賞・直木賞原稿コレクション展 −所蔵原稿・初版本を中心に−」がはじまった。
第一部はほとんど「浄書原稿」だ。そのうち何点か、その浄書原稿と初出誌を並べて展示してあるものがあった。
八木義徳「劉広福」の場合は新字/旧字の違いは見られるものの、初出テキストと浄書原稿は(おそらく全て)正確に対応しているらしく思われた。村上元三上総風土記」も、初出テキストが旧字旧仮名、浄書原稿が新字新仮名という違いはあるものの――相当後になってから「浄書」された原稿なのだろうか――、文章の違いは(おそらく)見られない。
海音寺潮五郎天正女合戦」を見て、驚いた。印象的な冒頭のセンテンスが、初出誌「星ひとつ見えぬ冬の夜の闇もこれほど黒くはあるまい。」で、浄書原稿「星ひとつ見えぬ夜のやみも、これほど黒くはあるまい。」となっている。この違いは一体何なのか。海音寺が何らかの意図を持って初出テキストからの変更を試みたのか、単に無頓着なのか。



別のコーナーでは、文学よりも活字が気にかかる観点から、オリジナル原稿の幾つかが目に留まった。大江健三郎「飼育」(『文學界』1958年1月号掲載)には「本文8ポ31字27行×2段」の注記があり、石原慎太郎太陽の季節」には「別冊文藝春秋編集部」名で「本文新8P31字25行二段組」の注記があった。文學界ではなく文藝春秋なら、芥川賞受賞作として掲載の1956年3月号だろう。
文藝春秋といえば、つい先日、リニューアルされたばかりになる凸版印刷の基本書体である文久明朝体を使った媒体である。

残念ながら初出誌が併置されていなかったので未確認だが、「太陽の季節」の方は、おそらく凸版印刷の1955年見本帳に載っている、(六号活字由来の古い8ポイント活字ではなく、少し大ぶりな字面に改めたばかりの)新8ポイントを本文活字として指定したものだろう。

三田誠広「僕って何」の原稿には文藝編集部による「略字/新カナ/捨カナ使用」のスタンプが押されていたが、こうした文字遣いに関する注記は今でも使われているのだろうか。



全体をじっくり見たわけではないのだが、眺めた範囲で最も気になったのは、佐木隆三の『復讐するは我にあり』原稿だ。
書き下ろしのこの原稿は、原稿用紙のタイトルが「仮題『荒野に呼ぶ声』」と記されているところからして興味深い。どの段階で、誰の発案で、現在の「復讐するは我にあり」へと変更されたのだろう。
その仮題の横に、最初の節を示す見出し「1――畑」があるのだが、「1」には「グランジョンオールド12P.Mイタリック」の注記、「――」には「表ケ」、「畑」には「12P.M」の注記。この「畑」に対する「12P」は12ポイントという活字サイズの指定、「M」は(ゴシックではなく)明朝体の意。節の番号を示す数字は「Granjon」のイタリックではあるが、いわゆる「オールドスタイル数字」ではないので、「グランジョンオールド」というカタログ名だったのだろう。これにわざわざ「M」注記をつけているのは時代性というかご愛嬌というか。「表ケ」は罫線の太さを指示したもの(オモテ罫[細い罫線])。
少し離れて、「組み 左右版面88ミリ本文9P44字×20行」の記載がある。恥ずかしながら、本文書体は判らない。少なくとも、内扉「復讐するは我にあり」に使われている四号の日活明朝と同じ時代の日活書体ではない。豊国印刷のオリジナル書体だったのだろうか。

9ポイント20行の本文は、計ってみると「行間二分」の状態つまり4.5ポイント空けて組まれており、1頁分の版面は左端から右端までで265.5ポイント、約93ミリである。組版指定を精密に解釈するなら行間に3ポ75のインテルを使ってトータルで5ミリ減らすべきなのだろうが、この指定をした編集者による「左右版面88ミリ本文9ポ20行」は実際には「本文9ポイント行間二分」を意味していると、現場は諒解していたのだろう。
やり直しになっていないのだから指定した側も「行間二分」を良しとしたわけであり、『組版原論』(asin:4872332725)から「四則演算もできない莫迦」呼ばわりされるような指定だと思うが、小数点以下の調整が困難な金属活字時代ならではの大らかな指示と受け取っておくべきだろうか(15刷くらいで左右版面が88ミリ程度になろうかとも思うが、その状態を意図した指示ではないだろう)。

こうした、山下浩『本文の生態学』(asin:4888882061)的な意味で「文学」的に面白かったり、あるいは『+DESIGNING』(asin:B00NGWGBCK)的な意味での「活字好き」に興味深いと思われるケースに関して、原稿と対比されるべき初出テキストの展示が為されていないのは何故か。
懐事情が苦しい日本近代文学館が、文学や活字がとても好きな観客なら2階の展示を見たあとで1階に入館して当該テキストを閲覧したりコピーしたりして、もう1度2階の展示を見てくれるだろうという商売上の戦略なのだろう。
単に特定の文学者が好きで作家の筆跡さえ見られれば満足だというお客さんを除き、1950年代から70年代あたりの芥川賞直木賞作品の初出テキストを見直した上で出かけることで、何倍も楽しめるような展示である。日本近代文学館は、チケット購入者は当日限り1階と2階が出入り自由という具合にしておくとよいように思う(既にそうなっているかもしれない)。