日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

白馬からマクドゥーガルへのアドバイス

『BORN TO RUN』

BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族

BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族"

156-157頁の、カバーヨ・ブランコからクリストファー・マクドゥーガルへのアドバイス

われわれが走りに向かったのはクリールの裏の丘陵、森のなかを上っていく松の葉が積もった岩の多いトレイルだった。走りはじめて一〇分とたたないうちに、私は激しくあえいでいた。カバーヨが速すぎるというわけではない。ただ、彼はひどく軽やかで、筋肉ではなく、気の力で登っているように見える。
バーヨがこちらを向き、小走りに下りてきた。「オーケー、レッスン1。私のすぐ後ろにつけるんだ」彼は今度はややゆっくり走りはじめ、私は彼がすることをそっくり真似してみた。腕をぶらりと上げて手をあばら骨の高さにし、小刻みにステップを踏む。背中は、脊椎のきしむ音が聞こえそうなくらいまっすぐに。
「トレイルとけんかするんじゃない」カバーヨが肩越しにさけんだ。「トレイルが差し出すものを受け取るんだ。石と石の間を一歩でいくか二歩でいくか迷ったら、三歩でいけ」

「レッスン2」カバーヨが叫んだ。「楽に、軽く、スムーズに、速く、と考えるんだ。まずは“楽に”から。それだけ身につければ、まあ何とかなる。つぎに“軽く”に取り組む。軽々と走れるように、丘の高さとか、目的地の遠さとかは気にしないことだ。それをしばらく練習して、練習していることを忘れるくらいになったら、今度は“スムーーーズ”だ。最後の項目については心配しなくていい――その三つが揃えば、きっと速くなる」

小学五〜六年生の頃だったと思う。ほとんど毎週末というくらいの頻度で、5〜6kmのトレイルを「駈けて」いた。
三年に進級する春に入居が始まったばかりの団地が切り開かれるまで、ほとんど忘れられていたようなハイキング道だったのだろう。父と二人で初めて通った時は、半分藪を漕いで行くような状態で、途中、カエルの卵が大量に産み付けられている湿地帯を見かけたりした。
ルートが整ってきた翌年以降はその湿地帯を見ることが無かったのだけれど、ひょっとすると最初の夏は道に迷って出くわしたのかもしれない。
いつごろから駈けはじめたのか、はっきり覚えていないけれど、楽しくて楽しくて、駈けるようになってからトレイルに通う頻度が上がったように思う。
確か六年の夏、買い物に行く途中か何かで母と歩いていた際、「妙に膝が前に出て、ペタペタと馬みたいに歩いている」と言われたことを思い出す。
三十年以上も前の話で、普段は底がペッタンコの運動靴で走り回っていたわけだから、たぶん誰に教わるともなく今話題のフラット・ランな足使いが身についていて、歩くときもトレイル・ラン式に衝撃を避ける歩き方になっていたのだろう。
中学校に上がるタイミングで引っ越してしまってからというもの、トレイルから遠退いてしまったので、つまらない歩き方になり果てている。
本書を読むまで、すっかり忘れていた。
トレイルを走るという楽しみを、どうして、こんなに長い間、忘れていられたんだろう。