日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

江川行書活字と久永其頴書の名刺(付文昌堂)

最初にまとめた「新聞広告に見る文昌堂と江川活版」に載せていなかったあたりから、話を続けたい。
先日、「江川次之進による行書活字の意匠登録」に記した通り、明治二十三年十月に掲載された、おそらく本邦初の江川行書活字による広告が、この「日高屋」や「尚玄堂」のものと思われる。

上記は明治二十三年十月七日付『時事新報』のもので、「日高屋」の広告は全く同じ版下によると思われるものが十月十日付『朝野新聞』にも出ている。
江川活版製造所自身も、十月十九日付『時事新報』に、名刺印刷のイメージを前面に打ち出した「行書活字并明朝活字印刷器械製造広告」を出している。

なお、同年十月二十六日には隷書活字の文昌堂が、「品位精選代価之義一層勉強」という広告を出している。

……
二号と五号でスタートした江川行書活字を使う広告は、特定の業者に好まれた後、それほど増えていく訳ではないが、翌二十四年十一月十九日付『東京朝日新聞』掲載の「気転丸」広告を見ると、「歯痛一切」「口熱一切」が三号活字であるように思われる。

タイポグラフィの世界」書体編の小宮山博史「江川行書三号仮名」が、『印刷雑誌』第二巻第九号(明治二十五年十月)に江川活版の三号行書「十一月十五日発売」予告広告掲出の件に言及しており、『本邦活版開拓者の苦心』も(おそらくその広告を理由に)明治二十五年十一月十五日に発売されたと記しているけれども、一部の字種に限るかもしれないが二十四年十一月には供給が始まっていたのではあるまいか。
ただし二十四年十二月八日付『東京朝日新聞』掲出の江川活版製造所自身の広告は二号と五号のみで組まれているから、あるいは上記三号活字様の文字は行書活字ではないのかもしれない。

……
明治二十年代は、年の瀬が近づく頃になると毎年国文社が名刺印刷の広告を出していた。
そんな中、明治二十四年の名刺広告で目を引かれるのが、文明館によるもの。

冒頭に「書風は草、楷、隷、行書等にして久永先生の揮毫也請ふ四方の諸君大至急注文賜はん事を謹告す」とある「久永先生」とは、すなわち江川行書の版下を書いた久永其頴のことではないか。また、その文明館の所在地が「東京市人形町通り住吉町北へ入東側」というのも気になるところだ。境町で開業し長谷川町に移転した江川活版所/江川活版製造所の所在地のごく近所、境町と住吉町は、人形町通りをはさんで(ほぼ)隣町である。
残念ながら、この文明館については、二十五年以後の活動状況が不明となっている。あるいは二十四年の営業があまり思わしくなかったのか。
……
実は明治二十五年五月十四日付『時事新報』の江川活版製造所広告にも三号活字は見えない。

二十六年十一月十日付『東京朝日新聞』には文昌堂が「尚一層地金等精選し諸事入念非常之廉価を以て御用相務可申候且旧来より余程字面も面目を改め候」という広告を出しているが、これは二十三年の段階より更に一歩改良を進めたという意味か、あるいは二十三年の作業が隅々まで行き渡ったというようなことか。

……
明治二十五年の暮れに名刺印刷の広告を見かけなかったのは、調査媒体(朝野、時事、東京朝日)の偏りなのか、国内で何らかの事情が生じていたのか、単なる見落としか、詳細は解らない。
……
明治二十六年の名刺広告の主役は、国華堂名刺店のものだろう。

上記十二月三日付『東京朝日新聞』ほか、数紙数日にわたって若干意匠を変えながら広告を出している国華堂は、江川行書活字の二号・三号・五号を配した広告で「書風 石版刷の分は草書。行書。楷書。隷書及其他各種にして孰れも在京貴□諸大家の揮毫なり●活版は明朝行書楷書隷書等の各種なり」と謳っており、この行書活字は江川活版のものと見て間違いないだろう。
この国華堂も、所在は人形町通田所町十八番地とあるのだが、田所町は、江川活版の移転先である長谷川町の北隣(人形町通りの東側)である。
活字ホルダーを用いた「店名スタンプ」の活字行商で活字業界に参入した江川次之進は、やがて独立して店を構えるにあたって、人形町通り界隈に「行書活字の強い潜在需要」を感じ取っていたのではないだろうか。