日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

片塩二〇一〇が引用する片塩二〇〇二aと二〇〇二b

片塩ファンなのに残念ながら「第2回タイポグラフィ学会研究論文発表会2011」を聴講しに出かけられない東夷の己。学会誌を再読。
三〇〜三一頁に「参考文献」が掲げられてる中に:

片塩〔二〇〇二a〕
本木昌造の活字づくり」『活字をつくる』ヴィネット四号、朗文堂、二〇〇二年
片塩〔二〇〇二b〕
『富二奔る――近代日本を創ったひと』ヴィネット八号、朗文堂、二〇〇二年
――とあるんだども、片塩ファンの己は、もちろん双方持ってゐる。
……
  • 学会誌八六頁、「牧はまた、その実物をもっているとしたが、閲覧を希望した際に「オレが死んだら、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこで見られるさ」ということであった〔片塩、二〇〇二〕が、牧の死後も『治三郎文庫』は開設されず、蔵書は古書市場に流出しているようである」とあるのは、もちろん、「二〇〇二b」の九七〜九八頁の話。
  • 学会誌一〇五頁、「また、一号や初号という大きなサイズも紹介されているが、築地活版では明治一〇年の時点でも鋳造法が未熟で、凝固収縮による活字面のヒケ(業界用語でオチョコ)の発生がひどく、まだ木活字をもって代用していた時代であった〔片塩、二〇〇二、一四九頁〕。」とあるのは、おそらくこれも「二〇〇二b」の可能性が高いんだども、「二〇〇二b」の一四九頁というのは学会誌一三九頁にも再掲された、活版製造所の明治十年見本帳にある「第初号」の影印が掲げられているのみ。「一号や初号という大きなサイズ」が木活字であったかどうかといった内容は、「二〇〇二b」の、どこにも記されてゐない。もちろん「二〇〇二a」にも。
  • 学会誌一一〇頁、「三谷、一九三三」五四頁の「編者曰」に記された註「本木昌造先生が活字に関する製法を公にしている」に付された注23、「この原著『本木昌造活字版の記事』全文の影印紹介と釈読は〔片塩、二〇〇二〕に紹介されている」とあるのは、もちろん「二〇〇二a」一〇〇〜一一五頁のこと。
……
学会誌一六一頁の「タイポグラフィ学会誌論文投稿細則」四に「投稿者は、編集委員会が、編集および/または印刷および/または出版上の必要に応じて、投稿された論文を校正および/または編集および/または再編集および/または再レイアウトする場合がありうることに同意しなければならない」とあるんだども、つまり「校正されない場合が多い」とも読める。
三谷幸吉の次男の名が誤記されている件は、裏づけ調査の手間がかかるため看過されたのかもしれないんだども、この文献参照の不具合は読めば気づく類のものである。
残念ながら片塩二朗「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」(『タイポグラフィ学会誌04』二〇一〇)は、誰にも校正してもらえなかったんだろう。
……
ちなみに、前述した学会誌一〇五頁、「一号や初号という大きなサイズ」が木活字であったという件。学会誌一三九頁に掲げられた「図54」のキャプションに、こう記されてゐる。

「第初号」とされた明朝体は、鋳造技術が未熟で、見本帳掲載活字は木活字とみられる。形象もまだ未消化の部分がみられ、墨溜まりの発生しやすい素朴な意匠である。

何を根拠に「鋳造技術が未熟で、見本帳掲載活字は木活字とみられる」というのか謎である。前述のように「片塩、二〇〇二a 」にも「片塩、二〇〇二b」にもそれらしき記述が見あたらない。
この「片塩、二〇一〇」が何故か執拗に言及を避けている、小宮山博史明朝体、日本への伝播と改刻」『本と活字の歴史事典』(柏書房、二〇〇〇)*1の三二三頁には、かういふ記述がある。

日本最初の活字見本の一つである「崎陽新塾製造活字目録」(『新聞雑誌』第六十六号付録所収、明治五年十月。図二九)には初号から七号振仮名まで六サイズ九書体が掲載されているが、初号は印刷面を見ると水平に板目が走っているのが観察でき、明らかに木活字であることがわかる。

……
本日の研究論文発表会と懇親会、盛会だったんだろうなぁ。

*1:「片塩、二〇一〇」には、同書所収の府川充男和文鋳造活字の『傍流』」は参照されてゐる。