日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

三谷幸吉は「おうちょく」バカだったんだろうか

片塩二朗「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」(『タイポグラフィ学会誌04』二〇一〇)八五頁に、①《三谷の前半生の記録は海軍に徴用されたとする記録をみるばかりで乏しいが、大正時代の初期に、忽然と労働運動の闘士として神戸印刷工業組合(ママ)の機関誌『活叫』に登場する。同時に欧文植字工の特異な職能団体だった「欧友会」の関西支部長としてもさかんに活動をくりひろげた。欧友会にはままアナーキストや体制激烈批判派がいて、なにかと物議をかもす団体でもあった。》と、『活字に憑かれた男たち』(朗文堂、一九九九)に記した話が再掲され、続けて②《その後東京に転じた三谷は、博文館印刷所(共同印刷の前身)に勤務したが、職種はやはり欧文植字工であった。この職種は俗に「おうちょく」と呼ばれ、この時代の活字版印刷工の多くのように、尋常小学校を卒業し、徒弟修行から欧文植字職人としての途を歩むには、相当に強固な意志と、自助努力を要したと思われる》云々と記されている。更に③《博文館印刷所などの大手印刷所においては、職掌が明瞭に分割されており、三谷は欧文植字(欧文組版術)には詳しくとも、活字複製原型製造、活字鋳造、印刷現場、製本術などでの経験や知識が意外なほど乏しかったとみるのが適当であろう》とも記されている。
……
(一)実は、労働運動全般や印刷労働運動を記録しようと努力を積み重ねて来られた方々にとって、「欧友会」の資料は極めて乏しいものであるようだ。
例えば労働運動史料委員会が編集し東京大学出版会から一九六八年に発売された『日本労働運動史料』第三巻。これは現在「欧友会」についての百科事典的記述の基礎になっている資料だが、この第一章第三節「活版工欧友会」に拾われた資料は、『明治・大正期自立的労働運動の足跡』(JCA出版、一九七九)を著した水沼辰夫が所蔵していた、欧友会機関誌『欧工の友』二一号・二二号のみである。
『日本労働運動史料』には欧友会の「関西支部」のことなど、全く出てこない。
神戸市活版印刷職工組合の機関誌『活叫』は、法政大学大原社会問題研究所も所蔵しているが、三谷幸吉自身の手によるスクラップとしても印刷図書館に保存されている。三谷幸吉の労働運動について詳細に調べあげた小野寺逸也はこのスクラップ帳を通読し、二冊目の末尾にまとめられた三河島町議選の地元新聞記事などについても神戸市史紀要『神戸の歴史』で言及している
神戸での三谷幸吉の活動を可能な限り調べあげた小野寺は、三谷について欧友会関西支部云々とは一言も記していない。
欧友会の会員であった水沼は、『明治・大正期自立的労働運動の足跡』に、東京で発足した欧友会と相互運用されることに決まった「横浜欧文会」の件に続けて「欧友会はようやく形を整えて来た。会員は東京、横浜(欧文会)から大阪、神戸、長崎を越えて遠く海の彼方の京城・大連にまでも延びた」と記している。
小野寺は「第一次大戦後の印刷労働運動と三谷幸吉」(『神戸の歴史』一九九三)において、協調会資料に基づき「大正九年十一月末現在、友愛会神戸聯合会葺合支部には印刷工六人が加入しており、彼らは福音印刷合資会社神戸支店の労働者である」と記し、続けて水沼〔一九七九〕を踏まえて「欧友会系の横浜欧文会は福音印刷の労働者が中心になって結成されているので、さきの葺合支部の組合員には元欧友会の会員であった者が含まれる可能性がある」と控えめに記すのみである。
私も三谷のスクラップを通覧しており、また三谷の著書を国会図書館と印刷図書館において一通り閲覧し得たが、欧友会に所属したらしき記述は、まだ見ていない。
片塩〔一九九九〕や片塩〔二〇一〇〕が記す「欧友会関西支部長」の件が、当否を確かめ難い聞き書きではなく何か確実な資料に基づく記述であるならば、ぜひ典拠をお教えいただきたく思う。日本の初期印刷労働運動研究にとって、極めて重要な資料であることは、疑いない。
また、三谷が海軍に在籍しただろうことは小野寺も状況証拠によって述べるに止まり、「海軍に徴用されたとする記録」は私も見いだせていない。
……
(二)三谷幸吉が記した『植字能率増進法』(印刷改造社、一九三五)によると、確かに上京した三谷は博文館(共同印刷)に勤めているが、三谷にとって、これはあくまで活版印刷技術研究の一環として数箇月単位で潜り込んだ印刷所の一つであるにすぎない。
その「文字物研究のため」にもぐりこんだ博文館(共同印刷)第一製版科で、三谷は「ベタ物の最高能率試験をしてみたことが」あると記している(『植字能率増進法』一二三頁)。「夫れは山室軍平氏著の『宗教改造』と云ふ菊判五号ベタ四十二字詰?十四行。頭注付でありました。其版を正味八時間で纏めも一頁宛致して六十四頁、(平均一時間八頁)を二日間試験組版致したことがあります。然し一生懸命で組版致しますと恐ろしいもので前日と翌日の差が僅か六行丈け翌日が多かつたのであります」。
三谷が第一製版科において「おうちょく」としての仕事をしたわけではないと感じるのは、私だけだろうか(徳永直は『光をかかぐる人々』に、三谷とは「第一製版工場」で同じ植字工だったと記している。同時期に博文館に勤めていた石倉千代子は、『野の草』(日本婦人会議出版部、一九八一)に「後に『太陽のない街』を書いた徳永直も、関東印刷労働組合の一員でまたHPクラブの重要な幹部の一人だった。彼は第一製版科の腕のいい植字工として、近年入社してきたらしく、その頃は同じ科に勤めながらちよは顔も名も知らなかった」云々と記している)。
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(三)三谷幸吉は、東京の有名印刷所巡りをする少し前、『日本印刷界』大正九年十月号に「活版界に発明考案を推奨す」と題する記事を寄稿している。この記事に三谷は自分が最初に勤めたのは「福井新聞の今の最一つ前の福井新聞の前身である東洋印刷合資会社」であると記している。

入社した後で子供心にも活版印刷は中々人を沢山要するものだ、随って習得する事も沢山ある。是れでは自分も最も熟練なる一人前の職工になる迄には皆の行ることを一通り覚えねばならぬが其当時にては店の小僧、インキ付、紙取り、解版、文選、運転、製本、ハンド方、紙挿、植字、校正、注文取り其上が主人であるから充分習得の上営業するとすれば亦活版職工としての一人前とすれば平均二ケ年宛として二十四ケ年にして初めて主人となり夫れから店を出してから亦苦労なのであるから余程奮発せねばならぬと覚悟をしたのでありまして今日に至り其通り行って来ったのでありますが今日如何なる印刷所の主人と雖も其覚悟を以て行って居らるゝ人は少ないことゝ思ひます、是等を習得して初めて完全なる技術者とでも言ふのでありませう。處で今日の多くは植字は植字のみか文選より上りし者で機械の方及製本は一向存ぜぬ知らぬ、機械の方は亦文選植字製本が一向明かならぬと言ふ塩梅であるから技術上凡てが互ひに徹底しないから技術がメチャ〳〵なのである、今其証拠を挙ぐれば文選上りの植字係りと、多少機械を使ふ植字係との其技術上の相違は余程差が有りまして前者は只体裁にのみ重きを置き後者は体裁の外機械で組付けに手間を費やさぬ様にして製版する亦輪廓『ラン』に於ても組盆『ゲラ』の上にて締めて一杯にするのは文選上りの植字係に限りますが多少機械を使ふ人は組盆『ゲラ』の上にて少々短か目に削ると言ふ様なものです、亦製本も少々行る植字係となると『裁シロ』を充分に見て製版するし製本の心得の無い人は原稿の寸法通りにして『クワエ』も無い様な製版をする事がある。

云々と、全体の流れを見て己の作業を行うことの重要性を具体的に述べ、活版印刷技術全般を己の身につけようと努力を積み重ねたであろうことを示しつつ、大正年間の印刷界が印刷労働者を大量生産・粗製濫造することによって印刷品質の低下を招いていることを憂慮していた。
片塩〔一九九九〕にも《印刷の実体験からうまれた、トタン罫を垂直に切断する「三谷式罫切機」が量産され》たという記述があるが、平台ロールの印刷ムラ発生を解消する装置の発明など、私には「印刷現場、製本術などでの経験や知識が意外なほど」豊かだったように思われる。
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学会誌の一一一頁には、「それでも実は、筆者は佐藤へのおもいと同様に、三谷幸吉なる、粗放な、自己肥大にはしりがちな、稚気に満ちた人物には捨てがたいおもいをいだいている。なによりも、その次男・三谷幸夫とはながい交友関係にあるから悩みはふかい」とあるが、三谷幸吉の次男の名は、片塩二朗なる粗放な人物が『活字に憑かれた男たち』に記した通り、「幸夫」ではない。
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幻想小説ナントカ社交印刷所」()()にも呆れるが、私たちは、タイポグラフィ学会の査読論文「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」について、IHIによる調査報告の部分くらいは信用してもいいのかどうか、判断に苦しむと言うより他ない。