日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

徳永直の共働印刷生産組合

共同印刷争議に敗れた徳永直が、昭和二年頃、有志数人で小さな印刷工場を作ったといふ話が浦西和彦編『人物書誌大系 1 徳永直』の年譜に記されてゐて、そのやや具体的な内容が横山和雄『日本の出版印刷労働運動』(一九九八、出版ニュース社)五八三頁に書かれてゐたと以前記した
単に「共同印刷」解雇者一七〇〇名中の有志が集まったことで敢て「共働印刷生産組合」といふ名称を使ったのかと想像してゐた己なんだども、JCCU協同組合塾のMさんが記す『大正期の「労働者生協」の勃興』によると、どうも、生活協同組合あるひは消費組合としての「共働社」にちなんだものである可能性が高い。
上記サイトが抜き書きしてゐる通り日生協創立50周年記念歴史編纂委員会編『現代日本生協運動史(上)』の四三頁には、「共同印刷争議と共働社の取り組みについては共働社役員であった徳永直の小説『太陽のない街』に詳しい」といふ注釈があるんだども、ここで言う「共働社役員」といふのが、共働社本体の役員であることを指すのか、「博文館共働社」の役員であることを指すのか、おそらくは後者なんだべけども、不明である。
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ちなみに、『現代日本生協運動史・資料集 第1巻 史料編 (戦前〜1980年)』五一頁に「博文館共働社と共同印刷争議」といふ項があり、かういったことが書かれてある。

大正十三年十二月、印刷工の労働組合HP倶楽部(基礎工場博文館)が博文館共働社を組織した。これより先同工場には会社側の施設として、共済部経営の物品支給部があり、従業員の福利施設として恩恵的に経営していた。十三年五月、争議後これを独立して職工の管理に移そうとする運動が起こり、会社側もこれを認めて同年十二月末、物品供給部の組織を改めて生協とした。

はじめ協調的性格をもったHP倶楽部が、のち、次第に闘争的労働組合に変化し、大正十四年三月、出版労働組合と改称し、さらに同年八月、日本労働組合評議会系の関東印刷工組合と合同して、急進的となり、大正十五年一月から三月にかけて有名な共同印刷(大正十四年末博文館と精美堂と合併して共同印刷となる)争議をたたかった。博文館共働社はこの争議で、争議団の兵たん部の任務を果たした。

このあたり、参考資料として名が挙げられてゐる奥谷松治『改訂・増補 日本生活協同組合史』(一九七三、民衆社)と山崎勉治『日本消費組合運動史』(一九三二、日本評論社)ば眺めてみらんなね。
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なほ、横山『日本の出版印刷労働運動』が「受注先といっても一般のものはほとんど獲得できず、徳永の顔を利かせての受注に頼るほかなかった。一般図書の受注先は、早稲田にあった共生閣、水道橋のマルクス書房など左翼出版社をはじめ、定期刊行物も「協同組合運動」、のちの「戦旗」「プロレタリア芸術」「労農」(労農派機関誌)など、左翼系のものがほとんどである。」と記してゐた共働印刷生産組合の印刷物のうち、マルクス書房の出版物が水沢不二夫氏の『米国議会図書館「検閲和雑誌」書誌調査』に見える。農民闘争社の『農民闘争』のうち、昭和五年十一月号〜昭和六年一月号が、「小石川区林町四三」の「共働印刷生産組合」による印刷となってゐる。
この共働印刷生産組合の所在地なんだども、『日本の出版印刷労働運動』は「徳永の住んでいた小石川区久堅町の一階を改造して工場として注文を取りだし、徳永夫妻は二階に住むことにした」と記してゐる。『人物書誌大系』の年譜を見ると確かに昭和二年に長男が「小石川区久堅町八九番地で出生」し、昭和四年に長女が「小石川区林町四三」で生まれたとある。
『人物書誌大系』は昭和二年のところで「解雇者中の有志数人で解雇手当で小印刷工場をつくり、生産組合運動をおこしたがうまくいかず、臨時働きをして歩く」と徳永自作年譜の記述を紹介してゐるんだども。おそらくは、プロレタリア作家同盟の中央委員となった昭和六年、徳永が経堂へ移り住むこととなったその年末頃までは、徳永の自宅を本拠として「共働印刷生産組合」が営まれてゐたのだらう。
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博文館共働社が組織される頃の年代は、神戸印刷工組合を組織した三谷幸吉と、徳永直の同僚時代にとっても重要で、徳永は『光をかかぐる人々』において「大震災當時のことだから二十年ちかくもならうか。共同印刷會社の第一製版工場で、私も三谷氏も同じ植字工だつたのである。その當座、私は自分の屬してゐたポイント科の工場がつぶれてしまつて、他の植字工と一緒に第一工場へ𢌞されてきたので、三谷氏がその工場ではすでに古參だつたかどうかは知らない。それに三谷氏は一緒になると半年くらゐでやめて他の會社へいつたので、とくに親しかつたといふわけでもないが、仕事臺がちやうどむかひあひになつてゐた。普通だと雙方のケース架の背でさへぎられてしまふのだが、大男の三谷氏はケース架の上に首だけでてゐた。いつも私は「オイ」と誰かが自分をよぶので、何氣なくあたりを見𢌞してゐると、とんでもない頭の上から彼のながい顏がのぞいてゐて、びつくりさせられたりしてゐたことを憶ひだす。」と記してゐる
このあたり、『世界文化』での続編連載冒頭に「上卷をよみかえしてみると、やはり天皇軍閥におされた、多くのひづみを見出さないわけにはゆかない」と記されたところの、敢て詳述を避けた「組合運動」に関係する事柄があったりするのではないかと思はないわけにはゆかない己。