日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

明治二十年頃の築地活版に勤めたらしい山室軍平

今まで全く気づいてゐねがったんだども。「明治・大正・昭和前期の社会事業家・宗教家であり、救世軍(Salvation Army)の日本司令官として免囚保護、廃娼運動、日露戦争後の不況対策としての労働紹介所の設置、結核患者を収容するサナトリウムの開設、凶作地農民の救援、関東大震災後の被災者の救援など、生涯を弱者の救済に捧げた人物」であるところの山室軍平(一八七二−一九四〇)は、「新見市の近くで生まれ、十四歳のときに上京し、築地の活版製造所の職工として働」いたのだといふ。明治十九年のことだ。
http://www.doshisha.ac.jp/academics/institute/christ/dsw/07au/i_1108.html
山室軍平『私の青年時代』ば確認さんなねと思ふんだども、「築地の活版製造所」と言へば、つまり後の東京築地活版製造所のことだらう。
山室は明治二十年に「キリスト教の路傍伝道に従事し、その後福音教会系の築地教会に通うようになり、明治二十一年に洗礼を受けて正式なクリスチャンになりました」といふことである。
http://www1.ocn.ne.jp/~sukagawa/sukagawa.files/touzai.files/2007/fukuinn_church_J.htm
この明治二十一年といふのは、己の推定で日本最初の和文アンチック体活字の用例と見られる『新撰讃美歌』が出版された年。
そんな年に築地活版の職工が洗礼を受けてゐたとは驚きだ。
……
ちなみに、最初期和文アンチック体活字に因縁を持って居さうなのは、ヘボンの『和英語林集成明治五年再版の編集に協力した経験を持ち、『新撰讃美歌』編纂の中心人物の一人であった奥野昌綱だっただらうと、明示的な根拠のないまま勝手に予想してゐる己だ。