日本語練習虫

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山岡荘八の博文館印刷所勤務時代

講談社の『山岡荘八全集36「短編名作集」』(asin:4061291963)巻末に山岡荘八の詳細な年譜がついてゐるんだども、大正十年(一九二一)の項に、かういふ記述がある。

この年冬上京。翌十一年へかけ母がたの親戚である博文館印刷所につとめた。自伝に、文選の熟練工として、「母を語る」中に、
〈――一ヵ月に六十円も稼いで目を白黒させていた〉
とあるのがこの当時である。数えどし十六歳だが、すでに世帯を構えて妻子を養うにたる収入であったからであろう。同時に、逓信所(今日の郵政省)関係の学校に学んだ。それが、麻布局、小出局勤務というところへつながる

この「自伝」といふのは、山岡賢次編『遺稿 山岡荘八自伝』(asin:4062013991)のことだらうか。と思ひ、読んでみる。該当するらしいのは、「勇ましきなみだ」と題された節のこんな感じの箇所。

私の生涯で金があり余って困った記憶が三度ある。その最初がこの八歳の時で、二度目は上京して二年目に、文選工として徳永直の「太陽のない街」で有名な博文館印刷所に入った満十四歳の時だ。この時は一ヵ月に六十円もの時間給を手にして、ほとほと困った。巡査の給料が十円台という頃だから無理もない。三度目は、五十歳過ぎて「徳川家康」が売れすぎた時だが、この時は、一億円以上も入ったので、何に使おうかと思案していたところ、国と区と都が合計九十三%という税金を取ってくれたので、かくべつ困りはしなかった。

活版印刷に関係する職人が高い賃金を得ていたことについては徳永直も書いてゐるんだども、新人の文選工が皆「一ヵ月に六十円もの時間給」を得てゐたかどうか。山岡荘八が博文館の経営陣と親戚であったための破格な待遇だったのか。そのへんを知りたいと思ひ、色々眺めてみる。
……
活版印刷に関連する仕事につきながら勉学をするといふことについては、例へば森泉南『東京自活苦学案内』明治三十七年十二月十三日印刷(民友社)、十二月十七日発行(東華堂)には、活版職工印刷局印刷工・印刷職工製本職の項目があり、また渡辺光風他『立志の東京』明治四十二年発行(博報社)には、東京の生活費活版職工印刷職工といふ項目がある。
後者の『立志の東京』が記す明治末年の「活版職工」の賃金は、最も初歩の「仮名返」が「弁当付き二十銭内外の日給」で、「子供工か女工の仕事と定まって居る」ところの「解版」が「弁当付き十五銭内外」。「文選」は「熟練の程度に依って相違がある」が「日給三十五銭以上五十銭位」。「新聞植字」と「植字」が別項目になってゐて、「新聞植字」は「日給四十銭以上六七十銭位まで」で、「植字」が「日給五十五銭乃至七十五銭」とある。
……
当時の東京市における職人の賃金に関しては、『東京市統計図表』に明治三十三年から大正元年といふ日露戦争前後の社会変動を捉へた「東京市ニ於ケル物価ト賃金」といふ資料があるんだども、内容は明治三十三年を一〇〇とした指数表なので、金額は判らない。「活版植字職」については明治三十三年比で大正元年に一六四・七五まで上がってゐる。
更に山岡の時代に近いところでは、『東京市統計年表』第十九回の「産業 第十六 工場営業別職工賃金」の「雑工場」中に、大正九年「印刷製本業」の平均賃金が掲げてある。「職工十人以上ノ工場」で「原動力ヲ使用スルモノ」の男の賃金は一日平均二・一一八円、女で一・二七九円。「原動力ヲ使用セザルモノ」の場合男二・二五〇円女一・一〇〇円となってゐる。
同じ『東京市統計年表』には、一年間の平均就業日数と一日平均就業時間も記してあり、原動力ヲ有スル印刷製本業で一年平均三一四日間×一〇時間就業してゐるといふ。
ちなみに、大正十一年の『株式会社秀英舎沿革誌』附「工場規則」には賃金規定もあるんだども、等級制になってゐるので実態が判りにくい。本文の「現業員ノ賃金及年齢」には、見習工が男七十五銭で、大正五年に最低賃金二十五銭〜三十銭程度だった日給者が二円〜二円七十銭くらいになりつつあると書いてある。
ともあれ、前記『立志の東京』が示す「活版職工」の各職種の賃金と、『東京市統計年表』の大正九年の平均値を勘案し、また秀英舎の例をも参照すると、山岡荘八が博文館の文選工の中で安い方の賃金であったとしても、大正十一年に一ヵ月六十円といふのは十分に稼ぎ得たもののやうだ。