日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

釧路新聞啄木在籍時の輪転機

先日「明治三十年代の印刷工場とその動力」さ記した、明治四十年の調査で高知県の新聞社が輪転機の動力に石油発動機ば使ってるって話なんだども。
石川啄木全集(新版全集)第八巻(昭和五十四年、筑摩書房)に収録された釧路新聞記者時代の啄木の記事さ、「空前の大風雪」と題するかういふものがあった。

去る七日夜十一時頃より飛雪紛々として降る。翌八日午前二時に至りて北東の烈風雪を捲いて至り天地晦瞑唯巨獣の咆哮するが如き暴風雪の怒号を聞く。夜明けて風威毫も衰へず、窓外の乱雪濠々として全く咫尺を弁ぜず、家々皆戸を開く能はずして黄昏の如き薄暗の屋内炉を携して殆んど隻語を発する者なし。市中の往来杜絶する事終日に亘り水尽くれども汲む事能はず。魚菜空しうして又求むるに由なし。午後三時頃に至り風位更に北西に変じて一段の凶暴を加へ来り、瓦を剥ぎ街路を埋め人を斃し家を倒して夜に入り、一昨九日午前二時に至りて風勢漸く衰へ降雪亦稀なり夜明けて戸外の雪を排し天日の光を仰いで初めて蘇生の思あり。街上積雪庇よりも高く屋外亦風と共に戸隙より入れる雪尺に達するもの珍しからず。潰倒家屋数戸、圧死者数十名、前後二十四時間に亘れる三月八日の暴風雪や実に空前の大惨禍たりき。
一昨九日街路漸く通行し得るに至るや、本社は早朝直ちに数名の社員を結束せしめ各方面に急派して此空前の風雪の被害を踏査せしむ。社員皆腿を没する堅雪を破つて探求具(つぶ)さに烈寒と戦ひ午後三時に至りて漸く帰り来る。然も不幸にして前日の風雪の為本社工場内亦窓戸を破つて吹き入れる雪の為に惨状あり。石油発動機其他に故障を生じて印刷する能はず。遂に昨朝の本紙を休刊するに至れるは本社の誠に遺憾とする所、今乃ち諸方の報告を綜合して左に概況を報ぜんとす。

明治四十一年三月十一日付の釧路新聞の記事である。
全集に採られた啄木による釧路新聞の記事は、上記以後数日続く雪害の続報が最後となってゐる。年譜によれば、同年三月末に釧路新聞退社の腹を決め、四月五日に函館へ移り、四月二十五日に上京してゐる。『スバル』を始めるのは、同年末のことだ。
……
なほ、山梨県印刷工業組合のサイトに掲載されてゐる同組合印刷文化展記念誌『山梨県の印刷』(昭和三十八年)からの転載記事さ、かういふ箇所があった。

日露戦争後は、世界に伸びる国運の発展、中央線開通を背景に活況を呈し、それとともに工場設備にも整備が行われるにいたり、従来の人力に代わって、電動機使用工場がグッと増加した。従来小規模のところでは足踏み式で機械をまわし、大きな機械使用工場では、二人がかりで綱を交互に引いて動力の代用を勤めたものであって、山岡印刷所が工場の横手を流れる濁川に水車をかけ、機械を動かそうとしたことも昔語りとなった。山梨日日新聞が石川式マリノニー輪転機を導入したのが同42年(1909)6月、東京に頼るほかなかった写真製版が県内で行われるようになったのが同43年5月、同社が写真部を設置して以来のことであった。

明治二十一年に内閣官報局が導入し、明治二十三年に東京朝日新聞社が輸入したフランスのマリノニ式輪転機は、従来式の二十倍の速度での印刷を可能にしたといひ、また国内メーカーによって倣製され多くの新聞社に採用された。
長崎日日新聞は大正元年に「マリノニ改」である朝日新聞社の津田式輪転機を導入し、原爆で焼失したと「長崎新聞120年の歩み」に記してゐる。
東奥日報大正元年に「マリノニ改」である東京機械製作所の石川式輪転機を「東北地方で2番目」に導入し、昭和二十年の空襲で焼失したと「会社概要」に記してゐる。
津田式が明治三十七年、石川式が明治三十九年の製品化である。
明治四十一年三月の釧路新聞を刷ったのも、石川式や津田式など「マリノニ改」の輪転機だったらう。