日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

三谷幸吉が「神を創った活字研究者」となった訳

かつて尼崎市立地域研究史料館長を勤められた故小野寺逸也氏の論文「第一次大戦後の印刷労働運動と三谷幸吉」が収められた神戸市史紀要『神戸の歴史』第23号と、その補遺が収められた第24号が届き、熟読。
三谷の神戸時代については、おそらくこれ以上の調査結果は出て来ないだらう、一流の仕事。
ところで、本日の記事の表題は片塩二朗『活字に憑かれた男たち』(朗文堂、1999)の三谷に関する章を踏まえてゐる。
片塩氏の記述には、次のやうなものもある――

このひとは、印刷の歴史と、活字の技術にかんする著作をのこしました。とりわけこの国の印刷史の人物列伝の調査は、丹念で詳細をきわめたものでした。
しかし歴史上の人物を追うあまり、ついうっかり、自分の資料をのこすことを忘れてしまったようです。つまり三谷のことは、その生没年はおろか、出生地から本業まで、なにもかもがわからなくなっていました。

――んだども、小野寺論文によると、片塩1999から先日(20100329)引用した「三谷の前半生の記録は何ものこっていません」の前後に書かれてゐる、「三谷の前半生」の話は、どうも三谷幸吉『印刷料金の実際』に書かれてゐる話である模様。
小野寺氏は三谷の前半生について、「三谷の神戸来住までの経歴については不明な点が多い」としながら、かう書き出してゐる。


三谷幸吉は、父三谷長平、母キノの長男として、明治一九年(一八八六)三月九日、いまの福井市に生まれた。幸吉の記しているところによると(三谷幸吉『印刷料金の実際』昭和二年、印刷改造社刊、一九〜二〇ページ)、三谷家は代々福井藩松井家譜代の桧皮業の出入り人で士分格であった。
以下、三谷の経歴に関して、『印刷料金の実際』から何箇所かの引用が、出典明示されつつ紹介される。
三谷の自伝的な要素についてどこまでの内容が書かれてゐるものか、己はまだ『印刷料金の実際』を見てゐないので何とも言へねぇんだども、ある種の人々にとって、印刷史に関する話題はネタ本を丸写しにして尚且つネタを隠すといふのが当然の作法なのだらう。それゆえ、さうした人々において、今井直一『書物と活字』が洋書の丸写しだといふ邪推も生まれるのだらう。てな妄念が離れなくなっちゃったよ、己。
閑話休題
小野寺逸也「第一次大戦後の印刷労働運動と三谷幸吉」には、小野寺氏が拾った限りで三谷が生涯で三回「請願」を行ってゐると記されてゐるんだども、そこに拾はれてゐない重要な請願があることに気づいた。
昭和二年六月二十七日付の、「活字角ノ設定及活字種類限定ニ関スル請願」といふものだ(国立公文書館、本館-2A-014-00・纂01785100)。この中で三谷は、工業品規格統一調査会が紙や印刷物の寸法を統一するために近々調査するというのだからついでに活字製造所毎にサイズが違ってゐる「活字角」の統一も図るべきだし活字の種類についても整理するべきだといった主張をしてゐる。
印刷業界全体の底上げによって印刷労働者の生活改善をも図るといふ三谷の独特な印刷労働運動から出て来た請願と推測される。
三谷の印刷労働運動について詳しくは小野寺論文を参照していただくとして、印刷業界全体を改善するといふ野望、ここでは印刷業界全体で活字サイズを統一することによる合理化を目標に掲げる三谷にとって、《日本語活字の始祖である本木昌造鯨尺によって活字サイズを定めた》(のだがバベルの塔よろしく後代の活字製造所が各自バラバラな寸法で活字を作るようになってしまった)といふ“神話”がひとつの武器として必要とされただらうことを、「昭和二年」といふ年号とともに、注目しておきたい。
三谷が“本木伝”を刊行するのは昭和八年のことである。
赤旗系統の印刷労働運動参加者である徳永を観察し、「共同印刷の大争議」で徳永らとすれ違ふ黒旗系統の印刷労働運動を水沼辰夫『明治・大正期自立的労働運動の足跡』(JCA出版、1979)で眺めた己なんだども、もうひとつの印刷労働運動の流れを担った者としての三谷幸吉を追っていく必要がありそうな気がしてきた。