日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

三谷幸吉の神戸時代

徳永直に本木昌造伝を託した三谷幸吉。三谷の人物像については、片塩二朗『活字に憑かれた男たち』(asin:4947613483)が、神戸時代のことについて、かう記してゐる。

三谷の前半生の記録はなにものこっていません。海軍に徴用されたことのほか、家族にもかたることがすくなかったようです。しかし三谷は大正時代の初期に、忽然と労働運動の闘志として、神戸印刷工組合の機関誌『活叫』に登場します。同時に欧文植字工の特異な職能団体だった「欧友会」の関西支部幹事長としても、さかんに活動をくりひろげました。
この時代の印刷界にあっては、ちいさな金属活字でアルファベットを組むことは、相当の教養と経験を必要としました。「欧文会(ママ)」はある意味では、そんな印刷工人のエリートの集団であり、一種のユニオンでもありました。また組合活動に熱心な社会主義者がおおく、まれにはアナーキストが所属していて、なにかと物議をかもすことがあった組織でした。三谷は初等教育しか受けていませんので、独学で英語などの知識を身につけたのでしょう。
当時の『活叫』をみると、生活賃金の確立、一週一日の休日制、集合契約制の確立をとなえるぐらいで、そう過激な活動家だった訳でもなさそうです。むしろ注目すべきはその副業で、まるで俥夫のようないでたちで、チンドン屋からサンドイッチマン、はては客引きまがいのことまでやっていて、郷里の弟妹と、自分の大家族の糊口をしのぐのに懸命だったようです。

徳永と出会ふ頃までの三谷については、このほかの情報は見あたらないと思ってゐた己なんだども。
……
神戸大学附属図書館の新聞記事文庫を眺めると、「明治の讀賣新聞」「大正の讀賣新聞」「昭和の讀賣新聞」(http://www.yomiuri.co.jp/database/cdrom/mts/)では全く知ることのできない大正時代の関西印刷界の動向、「そう過激な活動家だった訳でもなさそう」な三谷の神戸時代を知ることができる。
おそらくは1987年(明治三十年)の労働組合期成会によって蒔かれた種が、根を伸ばし、明治末年から大正年間にかけて労働運動の高揚期を経て1921年(大正十年)の「関西最初のメーデー」に至る模様なんだども。
コトバンクのデジタル版日本人名辞典が三谷について「大正8年神戸市活版印刷職工組合を結成し、翌年幹事長。」と記してゐるんだども、さういった立場で迎えた大正十年のメーデーについて、同年五月二日付の大阪朝日新聞が、「紺の筒袖に白襷という扮装」で登場した「神戸印刷工組合」の「副組合長」三谷幸吉が神戸大倉山の集会で「労働祭」の宣言・決議を朗読したと報じてゐる。その宣言・決議の内容は、同日付の神戸新聞で詳しく見ることができる。
実はそのメーデーの前年から大阪印刷工組合や神戸印刷工組合といった地域別の印刷工組合が、労働者である組合員自身を株主とする印刷工場の設立を企ててゐることが、神戸大学附属図書館の新聞記事文庫によって知れる。
大正十年三月十七日付の大阪朝日新聞によると、神戸印刷工組合による会社創立の第一回委員会が、同二十五日に「兵庫羽坂通二丁目三谷幸吉氏の宅」で開かれる予定と報じられてゐる。この創立委員会の内容は、三月二十七日付大阪朝日新聞が報じてゐる。大正十年十月二十六日付大阪時事新報は、神戸印刷工株式会社創立準備会の模様を伝えてゐる。
また、大正十年三月四日付の大阪毎日新聞によると、大阪印刷工組合も、既存の印刷工場を買収して工場自営を行ふことを企てた模様である。
翌1922年(大正十一年)、「神戸印刷工株式会社」発足を伝える三月十九日・二十日付の大阪毎日新聞は、発足までの流れについて、大正九年の十二月に「神戸における印刷工の約半数」を擁して神戸印刷工組合が設立され、「労働者であると同時に資本家であらねばならぬという産業自治」を標榜するこの組合によって、大正十一年二月五日に「神戸印刷工株式会社」創立総会が持たれ

二月五日の創立総会で成立を告げた神戸印刷工株式会社は(一)本社を神戸市大井通付属八〇二おき(二)事業としては活版石版印刷業及製本図書の出版で(三)役員として社長に久留弘三(神戸印刷工組合長)専務取締役に三谷幸吉(同副組合長)常務取締役に雑賀金次郎(同理事)取締役に田中熊一郎(同幹事)森田安治(同)監査役に内田保男(同)村上真次(同)の諸氏が選挙された而して久留氏以外はいずれも印刷職工であることが他の商事会社に比して甚しく其色彩を異にしている

――と伝えてゐる。
ちなみに、前述の大阪印刷工組合が既存工場の買収によってスタートしようとしたように、神戸印刷工株式会社も既存工場の買収によってスタートしようとしてゐたんだども、資金調達に躓き、違約金一千円を「久留社長と三谷専務両氏の個人負債として会社には毫も打撃を与えぬことにした」上で買収予定の工場を変更して「一にレーニン(一二〇二)」といふ電話番号で二月に正式発足予定であると、大正十一年一月十三日付大阪時事新報が伝えてゐる。
久留と三谷で一千円の負債を折半にしたとしても、おそらく年収一年分に近い金額であらうから、片塩氏が記した三谷の生活上の困窮は、この負債に多くを因るのではなからうか。
なほ、大原研デジタルアーカイブ「神戸印刷会社同盟罷業」の資料によると、1925年五月頃には、業績悪化により職人の解雇を実施せざるを得ないこととなったり、ストライキが起きたりしてゐる模様である。
その後「神戸印刷工株式会社」がどうなったのかといったことや、関東大震災の頃に半年間だけ同僚だったと徳永が記してゐる時期のこと、そして共同印刷をやめた後のことなどは、現時点では全く不明である。
ともあれ、関西の印刷界に三谷の名が轟いてゐただらうことは想像に難くないし、徳永が『光をかかぐる人々』の中で「職長も彼にだけは「三谷さん」と稱んでゐたのをおぼえてゐる」と書いてゐる「さんづけ」の理由も、解らうといふものだ。
……
かうした神戸時代の三谷について、実はciniiに採られてゐない「第一次大戦後の印刷労働運動と三谷幸吉」といふ論文が神戸市史紀要『神戸の歴史』第23号と24号にあることを昨晩知って、注文したばかりの己。
上記新聞記事以上のことがどれだけ書かれてゐるのか、紀要の到着が、とても楽しみだ。
……
杉原四郎「神戸の経済雑誌」(http://hdl.handle.net/2433/79795)によると、片塩氏が「神戸印工組合の機関誌『活叫』」と記し杉原氏が「神戸市活刷印刷職工組合」の労働運動雑誌と記す『活叫』は、(法政大大原研の)『協調会文庫目録』から抽出できるといふんだども、大原デジタルライブラリーの「社会・労働関係和書データベース」でヒットしないので、未確認。