日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

岡茂雄の造本と装釘同好会

中野重治獄中で愛読したといふ柳田国男の『雪国の春』。(旧)丸岡町民図書館の『中野重治文庫目録』によると、確かに、昭和三年二月に岡書院から刊行された『雪国の春』が、中野重治旧蔵書に含まれてゐる。
この『雪国の春』については、岡茂雄『本屋風情』(1974、平凡社)第12節「よくぞ生まれた『雪国の春』」(88-93頁)さ、昭和二年十一月になって柳田国男が《昭和三年の一月に「雪国の春」といふ題の本を岩波書店から出したい》と岡茂雄に電話をかけ、いきがかりで岡が出版を引き受け、なんとか完成するまでの顛末が記されてゐる。柳田の注文で橋浦泰雄が表紙画を描いたらしい。
先日の記事(20100222)で岡茂雄『本屋風情』のことに話が及んだので、岡茂雄の造本と装釘同好会のことについて、メモしておく。
……
学者としてではなく出版者として日本の人類学・民俗学の発展に寄与することを志し岡書院を設立した岡茂雄のバイオグラフィーには、《毀れないことが造本の要諦でありその上で著者の意向を参酌して内容にふさはしい装ひをすべきだと固く信じ》る岡の、「装釘」趣味のことが、付記される。
Wikipedia「岡茂雄」の項を見ると、「岡書院の造本」といふ節が立てられ、かう書かれてゐる。

造本の工程を「装幀(そうてい)」といい、今日は当用漢字表記により「装訂」と表記する。しかし、こわれない本造りを標榜していた岡は、「装釘」の表記を好んで用いた。ついには「装釘同好会」の創設に参加。機関誌『書物と装釘』(1930年刊)が刊行される。岡は出来上がった本を床に叩きつけ、堅牢に仕上がっているかを試したと言う[2]。

ちなみに、上記[2]の出典は、《司馬遼太郎「本屋風情」『本所深川散歩・神田界隈』街道をゆく36、司馬遼太郎朝日新聞社、1992年。》となってゐる。
上記引用文中にある「装訂」の項へのリンク(「装幀」の項に転送される)を辿ると、中に「“そうてい”逸話」といふ項目があり、かう書かれてゐる。

大正から昭和初期に、民族学や考古学の名著を多数世に送り出した岡書院店主の岡茂雄は、壊れない本造りにこだわり、「装釘」の表記を好んで用いた。ついには「装釘同好会」の創設に参加。機関誌『書物と装釘』(1930年刊)が刊行される。岡はでき上がった本を床に叩きつけ、堅牢に仕上がっているかを試したと言う[3]。また、岩波書店の創業者岩波茂雄も、社長室で、でき上がったばかりの本を床に叩きつけ、試したと言う話が伝わっている[4]。

この[3]の出典は《岡茂雄「落第本屋の手記」『本屋風情』、平凡社、1974年、264〜288頁。》と記されてをり、[4]が《司馬遼太郎「三人の茂雄」『本所深川散歩・神田界隈』街道をゆく36、司馬遼太郎朝日新聞社、1992年、427〜437頁。》だといふ。
Wikipedia内の隣接項目間で、典拠が喰ひ違ってゐる。
己が岡茂雄『本屋風情』(1974、平凡社)の第30節「落第本屋の手記」(264-288頁)ば見た限り、出来上った本を床にたたきつけて堅牢さを試したとかいふ話は記されてゐない。「装釘」について書かれてゐるのは、次の内容である。

私は、書物は毀《こわ》れないということが、造本の要諦であって、その上で、著者の意向を参酌して、内容にふさわしい装いをすべきものだと、固く信じていたので、装幀という文字は殊更に嫌って、装釘という文字をあえて使っていた。この意見には石田幹之助さんも賛成してくださった。
表紙の装いは、岡書院の場合は、内容が内容であるから、地味に押さえるように努めた。しかしその材料だけは、いつも上物を選んだ。クロースにしても、当時の和製品は粗悪であったので、バックラム、アートカンブリック、すべて西欧のものを使った。ただ柳田先生の『雪国の春』だけは、先生のお好みによって、あのようなものになったのである。

造本の興味はだんだん昂じ、とうとう読売新聞の稲葉という、早稲田出の若い社員に示唆《しさ》されて、氏と「装釘同好会」というものを創め、氏を主宰者に立てて『装釘』という雑誌を発行するまでになった。会員は学者では和田千吉、石田幹之助さんら、画家では恩地孝四郎、小穴隆一氏ら、装釘研究家では庄司浅水、小河阿丘氏、その他、紙の研究家、製本専門家、それに本屋では、長谷川巳之吉氏や私ら、総員二十名くらいであったように思う。

ちなみに、岡『本屋風情』第18節「内田魯庵翁の回想」(152-162頁)中に、かういふ箇所がある。

私は自分の出版したものは必ず翁に進呈したが、その書物、特に造本については、いちいち忌憚ない批評をされたのである。それに対して私は、自分の信じるところを臆面もなく開陳して、抗弁がましいことをいったこともしばしばあったが、うるさがりもせず、いつもまじめに応じて下さった。私に造本の意義、楽しみを教えて下さった、ただ一人の恩人である。私は翁の没後、しばらくは造本の張り合いを失い、怏《おう》々として過ごしたことを憶えている。

ところで、岩波茂雄が本を床に落として造本の試験をしたといふ話は、司馬遼太郎街道をゆく 36 本所深川散歩・神田界隈』(asin:4022564059)の中で、こんな具合に記されてゐる(429-437頁「三人の茂雄」冒頭付近)。

本というのは、こわれやすい。
このことについて、二十年ほど前に読んだ随筆がある。筆者の名は失念した。その筆者が、むかし岩波茂雄をその社長室に訪ねて話していると、編集部員が、できあがったばかりの本をもってきた。
岩波はいきなりその本を床《ゆか》にたたきつけたというのである。
「本が堅牢であるか、ためしているのです」
と、岩波が、いった。

こんな裏付けの取りようがない話を典拠に掲げていいのかどうか、己なら眉につばをつけておくんだども、この逸話は、司馬の創作でなければ一九七〇年頃に司馬が目にした実在の随筆に書かれた話なのだらう。随筆の在処を知りたく思ふ己。
上記に続けて、司馬は書く。

岡茂雄が神田駿河台下で文化人類学のための岡書院を興して困難な経営を続けていたとき、出す本ごとに、たたきつけのテストをしていたという。
このことは、子息の岡並木氏(静岡県立大学教授)からきいた。

なるほどさうですか。
それはそれとして。ウェブで「装釘同好会」を検索してみると、古書としての『書物と装釘』の情報を記したページか、Wikipedia「岡茂雄」およびそのコピーサイトにばかりヒットするんだども。
上記『本屋風情』からの引用文中さ《読売新聞の稲葉という、早稲田出の若い社員に示唆されて、氏と「装釘同好会」というものを創め云々》とあるやうに、実は昭和四年の読売新聞を見ると、四月十二日〜十四日、十六日〜二十一日、二十三日と十回にわたって「装釘同好会座談の夕べ」といふ記事が連載されてゐる。最初の三回は「製本は堅牢第一」(上)(中)(下)といふ副題がついてゐて、以下、「活字とクロースと」「岩波版を問題に」「今の装釘は半端」「漱石先生の装釘」「公衆閲覧と装釘と」「百冊に落丁一冊」「散会・夜の十一時」と続く。副題からすると「たたきつけテスト」のことに触れられてゐても良いと思はれるんだども、岩波のことにも岡のことにふ言及されてゐない。
ともあれ、せっかくだから、「装釘同好会」のメンバーで座談会に出席した方々の名を“座談の夕べ”から拾ひ出しておかう。

文学博士 和田万吉印刷雑誌社 郡山幸男、製本技術家 赤阪七郎、前同 庄司浅水、画家 恩地孝四郎、牧製本所主 牧祥之助、画家 杉浦非水、司法図書館 小河阿丘、アルス 中村正爾、美術研究家 板垣鷹穂、郁文堂 田中房次郎、第一書房 長谷川巳之吉、画家 小穴隆一、日比谷図書館 今澤慈海東洋文庫 石田幹之助春陽堂 高見靖雄、製本社 谷津猛、本社(読売新聞) 稲葉記者

あれれ、岡茂雄の名前が無いよ?
……
せっかくなんで、『書物と装釘』復刻版(1993、ゆまに書房)から、創刊号末尾に掲げられた、昭和五年四月二十日までに装釘同好会の会誌発行基金を預金した者の名を拾っておかう。

赤坂七郎他二氏(一八口)、池田初五郎(三口)、竹尾藤之助(二口)、山縣精一(二口)、牧恒夫(一口)、谷津武(一口)、木下荘(一口)、小河阿丘(一口)、岡茂雄(一口)、小林勇(一口)、服田久道(一口)、橋本福松(一口)、恩地孝四郎(一口)、仲村庄治(一口)、南條初五郎(一口)、長谷川己之吉(五口)、中條勇次他一名氏(六口)、飯島隆二(二口)、片山秀三(二口)、森輝(一口)、川原伸孔(一口)、牧祥之助(五口)、庄司浅水(二口)、稲葉熊野(二口)、小林鶯里(一口)、田中房次郎(一口)、梅村苞雄(一口)、伊藤長蔵(五口)、高島小三郎(一口)、三樹退三(一口)、坪谷善四郎(一口)、富山房(一口)

第二号に壮大な会員リストが掲げられてゐることは、書物逍遥さんのブログに記されてゐる通り。
ともあれ、少なくとも昭和四・五年の段階においては、“壊れない本づくり”と装釘同好会について、岡茂雄よりも牧祥之助の方がよほど入れ込んでゐるやうに見える己。
岩波書店のサイトにある「広辞苑ものがたり」にも牧製本の人が出てくるんだども、もうちょっとWikipediaでも触れられてゐていいと思ふよ、牧製本。