日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

出版従業員組合での橋浦泰雄と徳永直

先日(20100218)記した、『文化評論』1973年3月号所収の津田孝『徳永直論――「太陽のない街」前後のころ――』に記されてゐる、橋浦泰雄「初期の社会主義運動」の件なんだども。
日本近代文学館が所蔵する、日本共産党中央委員会宣伝教育文化部『読書の友』の複写を入手し、次のことが書かれてゐると知った。
まず、『読書の友』1968年6月10日号から創立総会の件。

会場にはいると、戸を閉めきってあったせいもあって、参加者のすう煙草のけむりがもうもうと部屋にたちこめ、向う側にすわっている参加者の顔がぼうっとしか見えなかったことをおぼえている。
出席者の過半数は見知らぬ人たちだった。出席者氏名は当時の情勢上記録されていないが、わたしの記憶によると、村雲大樸子(画)、小林源太郎(画)、徳永直(当時博文館印刷工)、山川亮(文)、島中雄三(石橋湛山東洋経済の記者)、正確ではないが青野季吉や佐野袈裟美、金子洋文、柳瀬正夢なども参会していたかも知れぬ。

橋浦時雄から聞いた話の記憶といったものではなく、泰雄自身が参加した会の記憶であることが確認できる。
『読書の友』1968年6月17日号には、1923年6月1日付発行の出版従業員組合『会報』のことが記され、そこで公表された基金応募者の中に、橋浦時雄、泰雄と並んで徳永直の名が見える。
橋浦連載では、1923年の第四回メーデー前後のことが次の回に書かれてゐる。この第四回メーデーにおいては、神戸大学図書館の新聞記事文庫にある大阪朝日新聞1923年5月2日付の記事が詳しく伝へてゐるやうに多くの検束者が出たんだども、橋浦は、その後のことをかう記してゐる。

メーデーの検束者たちが元気ででてきたので、その慰労をかねて井の頭公園に遠足会をやろうということになった。久堅支部(博聞館工場が中心)の主催だったが、他支部の組合員も合流した。その頃はまだピクニックという言葉はなく遠足だった。
連絡が急で不十分なため、参加者は三十名程度だったが、メーデーでひきさかれた二本の赤旗をおしたて、電車終点の中野から労働歌を歌いながら麦畑の中を行進した。午後の二時頃井の頭に到着し、池上の檪林のなかの茶店でむしろを借りて円陣をつくったが、さて弁当をひらこうとすると雨が降りはじめた。あわてて茶店にかけこみ、冷酒をだしてもらって弁当をくいながら気勢をあげた。威勢のよい演説をぶつ者が二、三あって歌になった。徳永直は民謡が上手だったが、“土工殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の十日も降ればよい、セノセノ”と全身の力をふりしぼって、しかも余韻のある歌声は、かれ亡き今日でも脳裏にしみこんでいて、その声を聞くことができる。

いやあ、原典に当たってみるもんだ。気がかりだった『五塵録』最後期の件が、かうして回収できた。