日本語練習虫

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大正文学研究会「志賀直哉研究」の徳永直と渋川驍

かつて「ナップ以前に出版従業員組合において「文化人橋浦」と「労働者徳永」が出会ってゐたかもしれねぇ」と想像し、実際に橋浦泰雄が出版従業員組合創立総会で徳永直と会っていた模様であると知って、「S司書」候補の一人である関敬吾と徳永直が「つながった」と得心した己なんだども。
先日、プロレタリア作家同盟の時期に接触してゐた可能性が高いと新たに予想された渋川驍と徳永の線について、非常に微妙なタイミングでの直接交渉の記録があることに気づいた。
高見順全集 別巻』(1975年、勁草書房)に収録された渋川驍「大正文学研究会と高見順」(初出『日暦』1965年12月号)である。
昭和十五年、文化統制の強化によって「書きたいテーマがあっても、手枷足枷がかかっているようで、身動きができない感じ」の中、「発表を無視した創作活動は別として、それ以外に、文学的情熱のそそげるものはなんだろうと話し合っているうち、自分たちの文学に直接接続した大正文学が研究しがいもあることだし、特別当局から制肘をうけることもないだろう」といふことで始められた大正文学研究会の、最初の打ち合わせが、高見順平野謙野口冨士男、倉橋弥一、渋川驍の五人で行はれたといふ。
何度か会合を持ったり座談会を雑誌記事として発表したりした後、共同研究の成果として昭和十七年七月に『芥川龍之介研究』が河出書房から出版された。

つぎの共同研究は、昭和十七年九月十六日、学士会館での集りで、「志賀直哉研究」と決り、編集委員には、平野謙吉田精一野口冨士男、青柳優にわたしの五人が選ばれた。戦争がしだいにきびしくなると同時に、思いがけない支障がつぎつぎにおこって、編集はなかなか進行しなかった。時には、中途で挫折しはしないかと危んだこともあった。それでもようやく一年九ヵ月だった*1昭和十九年六月二十日に、河出書房から刊行することができた。この月に「改造」が、翌月「中央公論」が休刊したぐらいだから、もう少しグズグズしていたら、不要不急の図書扱されて、出版を阻げられたかもしれない。その執筆者を見ると、戦後、「近代文学」で旺盛な筆陣を張った赤木俊(荒正人)、小田切秀雄山室静平野謙が顔をならべている。また当時執筆禁止のような扱いをうけて、ジャーナリズムから敬遠されていた中野重治、徳永直、青野季吉も姿を見せている。特に中野が執筆した「『暗夜行路』雑談」は、雑談とはいっているものの、随筆ふうの気軽なものでなく、正面からその作品にぶつかった六、七十枚にもおよぶ力作で、多くの話題を巻きおこした。

徳永直が「知人のS司書」に案内されて東大図書館の地下書庫に入るのは、丸善支那叢報の復刻頒布をしてゐる最中と見られるから昭和十七年のことであると判断してゐる己なんだども。
はてさて、徳永知人のS司書は、関なのか、渋川なのか、混迷は増すばかり。徳永の日記が公開されでもしない限り、解明できない性質の問題だったんだらうか。

*1:「だった」原文ママ