日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

渡辺順三と徳永直が転向出獄直後の中野重治を訪ねた話

先日は標記の件について間宮茂輔「作家同盟の周辺にいて(三)――プロレタリア文学運動の回想――」(『文化評論』1969年12月号)に書かれてゐたものをメモしてみた己なんだども、渡辺順三『烈風の中を』(1971、東邦出版社)の中には、かうあった。

そのころのことで、中野について思い出したことが一つあるので、ついでに書いておこう。たしか昭和十年だったと思うが、中野が出獄したということをきいて、徳永と私がさっそく見舞いにいった。なんでも新宿御苑前の、小さな劇場の横丁あたりの粗末なアパートだったと思う。徳永と私がその部屋に入ってゆくと、中野は壁にくっつくように向うをむいて寝ころんでいて頭をかかえるようにしている。私たちが何かいってもこちらに向かない。壁の方を向いたきりである。
傍にいた妹の鈴子さんが、例の男のような太い声で
「うちの兄貴はだめなんですよ。だらしのない」といってプンプンしている。
中野はある意味で「転向」して出てきたのである。それを恥じて私たちに背を向けたまま顔も見せないで、壁にへばりつくようにして寝ころんでいたのである。私は中野の心の苦悩が痛いように私の胸にもひびいてきた。私は中野の姿を見るに忍びないように思って、鈴子さんとひと言ふた言話しただけで、そこそこに帰ったのである。