日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

橋本英吉「徳永直との三十年」によると

まだ徳永が存命で、壺井栄の妹との破局問題があれこれと騒がれてゐた頃に書かれた、橋本英吉「徳永直との三十年」(『新潮』1956年8月号)のコピーが国会図書館から届いた。
残念ながら、徳永と碁を打つ話などは出て来ないんだども、己にとって興味深い、ふたつのエピソードがあった。

九州の片田舎の貧しい馬力屋に育つて、中等教育すら受けなかつた青年が、日本では希有の數ヵ國に譯される作家になつたのだから、精神的風景は複雜きわまるだろう。しかしただ一つ云えることは、勞働者の中で窮乏に鍛錬された青年期の精神が、月並な言葉ではあるが、彼に粘りと謙虚な人柄を與えたのだと。
徳永直はいつでも自轉車を乘り廻している。大塚の高臺からまだ草深い世田谷に引越した頃から、彼はこの庶民的な「足」を發見したのだろうが、これは印税が意外にたくさん入つたときにその人の趣味でふと買つてみる鞄のようなものではない。私もこの自轉車を二度、初めは子供が入院したとき二十日ばかり、次には強制疎開で貸家探しをしたとき一週間ほど借用したが、他の乘物では味えない親しみが湧くのであつた。少し大げさだが、時分の手足で動いて行くせいか、自轉車が體の一部のような感じである。私が粘りとか謙虚なとか、有り來りの文句を使うのは、こう云う低く構えた生活態度を指すのである。

さうか、徳永は世田谷で自転車を乗り回してゐたのか。といふのは、これまでの「ご近所さん」からは出て来なかった話。
ちなみに、上記の「強制疎開で貸家探しをしたとき」といふのはおそらく、『日本現代文学全集89』の「橋本英吉年譜」昭和二十年の項に「四月初め、強制疎開のため、家族を田方郡大仁町守木へ移し、自分だけ秋田へ疎開した横光利一の留守宅に殘つていた」と記されてゐる件だらう。

あるときナップの常任委員會が事務所に開かれた。私が徳永を「名二壘手」と云つたことから、誤解した小林(多喜二:引用者注)が怒つたことがあつた。その前日、目白の日清生命グランドでナップ對演劇同盟の野球試合があつて、ナップは鹿地亘の好投で勝つたが、このとき徳永は二壘手として豫想しない好守備をした。それを知らない小林が、私が皮肉を云つたものと早合點するほど、競爭意識で燃えたつていたのだ。二十年も昔のこの話を私は忘れていた。ただ徳永が當りのいい二壘ゴロを上手にさばいたことだけを覺えていたが、二年ばかり前に徳永に云われて思いだしたわけだ。

これも多分、他の徳永ものや多喜二ものでは見ないエピソードではなからうか。と思ひ、メモ。