日本語練習虫

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徳永直による内田巌追悼の文章

先日借覧した風間道太郎『憂鬱な風景●人間画家・内田巌の生涯』(1983、影書房)によって、徳永直には『美術運動』に書いた「内田巌さんについて」といふ追悼文があることを知った。
その1月13日付の記事に書いたやうに、日本美術会編、科学新興社発行の雑誌『美術運動』の37・38合併号は、近隣のめぼしい図書館のみならず、武蔵野美術大学の美術資料図書館にも東京藝術大学の附属図書館にも存在しなかった。
念のためと日本美術会に尋ねてみたところ、バックナンバーが保管されてをり、複写をお送りいただけることになった。
ありがたい話である。
届いた内容を見ると、「内田巌さんについて」は、徳永が『世界』98号に書いた「内田巌の思い出」とは異なるものだった。
また、『憂鬱な風景』あとがきで言及されている中野重治「未整理のままに」が収められてゐる中野重治全集第19巻の巻末でも確認できることなんだども、実は中野の「未整理のままに」は、徳永が内田巌追悼文を寄せた『美術運動』37・38合併号に、仲良く隣り合せで掲載されてゐるのだった。
……
ところで、先日の記事にも引用した、『憂鬱な風景●人間画家・内田巌の生涯』163頁の記述――

一九七二年に日本美術会が刊行した『日本アンデパンダン展の25年』に、内田巌の代表作品として日本美術会がわが希望した『歌声よ おこれ』でなく、『風』(一九四六年)の写真版が掲載されたのも、しづ子夫人の意志である。「五十歳になって労働者のえを描きはじめたということは、それだけで大したことだ」と徳永直はかいたが〔「美術運動」37・38『内田巌さんについて』〕、そういうことは、描かれた作品の芸術的価値を低めもしないし、高めもしない、というのが、画家の妻であったひとの一歩もゆずれぬ意地であるにちがいない。

――からは想像がつかなかった内容なんだども、「それだけで大したことだ」と書いた徳永は、しかし「私は絵のことはさつぱりわからぬけれど」と何度も断りながら、内田巌作品評として、追悼文中にかういふ続きを記してゐた。

私はほんとにもの知らずで、よく内田さんの家へはいつたけれど、絵をみせられてもわからなかつた。参議院議員宮城タマヨさんの肖像は傑作か力作かの部類だろうと思った。
しかし、なんとつても*1内田さんの戦後の仕事では「東宝争議」につづく一連の作だと思う。もちろん、私のようなわからずやでも、絵として完成しているのは手馴れた小ブルジヨア人物像とか静物とかにちがいないことはわかるけど、とにかく内田さんの絵に、手法に、革命をおこし、或はうながしているのは労仂者学生をえがいたものだと思つている。
ここでは主題が、内田さんのねがいが、内田さんの弱点をむきださせてしまつている。その主観性、かぼそさが、いやでも前面にでてくる。これは当然の話である。あらゆる芸術が、革命をおこすとき、その弱点をむきだしにせずにおかない。その主題が、作者のねがいが、従来根本的にないものだからである

さう、まことに、五十代で新しいチャレンジを行ったといふことと、出来上がった作品の出来映へといふことは、別個の評価を与へられてしまふものなのだ。――とは、徳永も理解してゐることであった。
ちなみに、先日の記事で『憂鬱な風景』からの引用として記した『夜明けの風』挿絵の件は、『世界』に記された追悼文中さ、かう記されてゐる。

もちろん黨員ではなくても「アカハタ」に挿畫をかくことで、どんなむくいをうけなければならぬかは覺悟の上であつた。近所に住んでいるので、小説がおくれて、私がいそいで原稿をもつていくと、とりにくる内田さんとよく路上でぶつつかつた。そんなとき一度「繪が賣れなくなつてネ、女房があちこちかけまわつてるんだけど……覺悟はしていたんですがネ」――といつたことがある。「アカハタ」は小説稿料も論外に安かつたが、挿畫稿料も同じくであつた。中央機關から末端機關まで、まつたくウソのような安い人件費で人人は活動していた。專門藝術家を好遇するという建前から、他の稿料と比べれば高價であつたが、「アカハタ」の仕事をするかぎり、藝術家たちも、まず生活費を工面してかからねばならなかつた。

党の仕事について対価を受け取らなかったといふ内田巌の態度について、確か中野重治が「せめて材料費くらいは請求したらどうか」と内田巌に語ったといふ話をどこかで目にした気がする己なんだども、どこでだったか忘れた。

*1:「なんとつても」原文ママ