日本語練習虫

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間宮茂輔『党員作家』『三百人の作家』の徳永直

間宮茂輔『党員作家』(昭和33年12月20日、同光社出版)と『三百人の作家』(昭和34年5月15日、五月書房)ば借覧。
曽根といふ名を与へられた、間宮自身であらう主人公と共に、徳永直をモデルとした登場人物について多くの紙面が費やされてゐる『党員作家』。「作にそえて」と題された後書きには、かうある。

この小説に、すぐ想像がつく仮名を用いて描いた多くの友に対して、そのような形式でしか書けなかったことをおわびする。それ以外の方法でやるとすれば『レ・コミニスト』にような、さらに高く発展させた作品とせねばならないことは自分でもわかっていたが、私にはその能力も余裕もなかった。しかしここで私にいえることはこの小説の内容となった人びとのすべてを私はそれぞれに深く愛しているというそのことである。

なおこの作に出てくる人物で、宮本百合子(三宅百合香)徳永直(徳川潔)田中英光(畑中映光)岩上順一(石上順市)の四人がすでに亡いことは感無量である。

小説として書かれてゐるため、「すぐ想像がつく仮名を用いて描いた多くの友」の個々のエピソードがどの程度事実に基づきどの程度創作であるのか不明なので、「徳川潔」のエピソードをどの程度拾っておくのがいいか、ちょっと判らない。
ちなみに、以前間宮武『六頭目の馬』から抜き書きした「新日本文学界」創立総会のエピソードは、引用した3つのブロックのうち先頭と末尾が『党員作家』54-55頁に書かれてゐる通りのものだった。
……
題名に「三百人の作家」とあるやうに多数の作家との交流を書き残したものであるため、経堂・豪徳寺近辺のことについては238分の9頁しか裂かれてゐないんだども、『三百人の作家』の「世田谷豪徳寺附近」といふ項目から、抜き書きしておく。

大正の半ばごろ、尾崎士郎をたよって大森馬込の地へ移ったように、わたしは二・二六事件の直後に、歌人の渡辺順三から教えられて、中野から世田谷豪徳寺の借家に移った。うしろは森の中の農家で、東がわには畑地がひらけ、両がわは道路、そして南を向いた庭の先に二階建の家があってそこに渡辺順三が住んでいた。

「この辺にはいろんな人が住んでるんですよ、暇なとき一緒にひと廻りしましょう」
苦労人の親切から、彼はわたしを案内して豪徳寺近傍の住人たちに紹介してくれた。
文学関係の人間だけをあげても、そのころ豪徳寺を中心とした地域には、徳永直がいた。森山啓がいた。島木健作がいた。広津柳浪の未亡人がいた。この未亡人宅には広津和郎も、のちには時おり帰って来るようになった。そうしてわたしが移って来て間もなく、淀橋の方から中野重治もこしてきた。中野の借りた家には、それまで石川啄木のむすめの良人であった、石川正雄が住んでいた。
青野季吉が経堂寄りの、現在もいる家へひっこして来たのも、谷崎精二玉電の上町駅に近い家に来たのも、ずっと後のことである。
石川正雄が住んでいてそのあとへ中野重治が来たり住んだ家のまえには、稲葉謙治という朝日の記者がいて、そこへ世田谷文化人がしげしげと集った。ロシヤ語の広島定吉、哲学の村松一人、作家の石上玄一郎、同じ朝日の記者で後に学芸部長になった河村専一等々である。
当時としてわたしは会った記憶はないが、彫刻家の本郷新もすでに現在の位置にアトリエを建てていたのかもしれない。経堂には洋画家の内田巌もいた。

この後、島木健作と衝突していく話も記されるんだども、そこは割愛。

結局わたしは気安いおしゃべりや、慰め合い、励まし合いの場として、中野や渡辺や、やや離れた徳永などの家へあそびに出かける日が多かった。

そんなおしゃべりの中から、「ガチャガチャ鳴る」旋盤の歴史を調べることになったり、西鶴の話をしたりといった副産物も、生まれてゐるのだった。