日本語練習虫

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中野重治・徳永直と経堂の内田巌

内田魯庵の長男で画家の内田巌、彼もまた世田谷の経堂・豪徳寺仲間の一人だったことは、中野重治の徳永直追悼文「やはり早すぎた」によって知った。
浦西和彦編『人物書誌大系 1 徳永直』(asin:4816901280)によると、『世界』1954年2月号(通巻98号)に徳永直は『内田巌の思い出』といふ文章を記してゐる。
美術畑の外にいる内田の旧友風間道太郎氏による『憂鬱な風景●人間画家・内田巌の生涯』(1983、影書房)ば借覧したところ、「近所づきあひ」の一端が記されてゐた。
いつごろから経堂に住んだか不明なんだども、同書によると、内田巌は1944年9月に一家で経堂から岡山県阿哲郡刑部町に疎開し、1946年3月、戦災を逃れた旧宅に戻ったのだといふ。以後、1953年7月17日に食道癌で亡くなるまで、世田谷区経堂の住民として過ごした模様。
最期の数年間、内田は「党員画家」として活動してゐて、党員である中野重治とのやりとりについても『憂鬱な風景●人間画家・内田巌の生涯』へ著者による中野聞き書きが記されてゐるんだども、それはさておき。
同書によると1948年に共産党員となる前年の1947年1月1日から8月1日までの間「アカハタ」に連載された徳永直『夜あけの風』*1の挿絵を内田巌が描き、また1949年に内田は徳永の肖像画を描いてゐるといふ。
時期的に考へると、内田が描いた徳永の肖像画は、谷崎潤一郎『月と狂言師』(1950、中央公論)口絵*2および『谷崎潤一郎全集』第十六巻巻頭に掲げられた谷崎の肖像画、或は下記内田巌代表作品『風』などのやうな真横を向いた顔だらうか。追求したく思ふ己なんだども、糸口が掴めない。
ちなみに、徳永直『夜あけの風』挿絵の件について、『憂鬱な風景●人間画家・内田巌の生涯』157-158頁には、かうある。

内田は入党する前に、「アカハタ」に連載された徳永直の小説『夜あけの風』のために挿し絵をかいている。近所に住んでいた徳永直が挿し絵をたのみにきたのを、内田はことわらなかったのである。当時、「アカハタ」に挿し絵をかけば、一般市民社会から、どんなむくいをうけなければならないかを、内田はよく承知していたのだが、それでもなお、徳永直の要請を引きうけたのは、プロレタリアの党にできるだけ近づかなければならないという気持ちがあったからだろう。
はたしてその後、内田巌の絵は売れなくなった。
「絵が売れなくなってネ、女房があちこちかけまわってるんだけど、……覚悟はしていたんですがネ。」
ある日、その日の小説のできあがりが遅れて、いそいで原稿をとどけにくる途中の徳永直と、それをとりにいく内田が往来で出会ったとき、いちどだけ、そんなぐち[♯「ぐち」に傍点]をこぼしたことがあった。
入党したのは、徳永の小説と内田の挿し絵の連載がおわってからまもないころであった。

そんな内田を気遣ったらしい徳永の文章があるといふ。『憂鬱な風景●人間画家・内田巌の生涯』163頁に曰く。

一九七二年に日本美術会が刊行した『日本アンデパンダン展の25年』に、内田巌の代表作品として日本美術会がわが希望した『歌声よ おこれ』でなく、『風』(一九四六年)の写真版が掲載されたのも、しづ子夫人の意志である。「五十歳になって労働者のえを描きはじめたということは、それだけで大したことだ」と徳永直はかいたが〔「美術運動」37・38『内田巌さんについて』〕、そういうことは、描かれた作品の芸術的価値を低めもしないし、高めもしない、というのが、画家の妻であったひとの一歩もゆずれぬ意地であるにちがいない。

同書あとがきによると、中野重治の「未整理のままに」といふ短い随筆に、徳永が『夜あけの風』の挿絵について中野に相談した話など内田巌関連のエピソードが数行記されてゐるといふので、全集第19巻ば借覧。徳永直に関係する冒頭部分のみ抜き書き。

内田巌《いわお》にはじめて会つたのがいつだつたか今思い出せない。とにかく戦争がすんでからだつた。通夜《つや》のときいろんな人が話をしたが、そのとき徳永が『アカハタ』の挿絵のことを話した。徳永の小説が『アカハタ』にのることになり、挿絵を誰に頼もうかわたしに相談した。そのときわたしが内田巌に頼んだらよかろうと言つた。そこで彼に描いてもらうことになつた。そんなことを話して、なるほどそうだつたなとわたし自身思い出した。それくらいだから、いろんなことを忘れている。

ところで、徳永直が『美術運動』に書いた『内田巌さんについて』という文章の存在は、『人物書誌大系』に見あたらない。上記引用文中のの書誌情報は、日本美術会編、科学新興社発行の雑誌『美術運動』の37・38合併号の意味だと思はれるんだども、近隣のめぼしい図書館のみならず、武蔵野美術大学の美術資料図書館にも東京藝術大学の附属図書館にも、当該号が存在しない模様である。『世界』に載った『内田巌の思い出』ともども、いつか眺める機会を持ちたいと希ふ。

*1:『夜あけの風』の連載期間については『人物書誌大系』の記述による。

*2:2005年の中公文庫版『月と狂言師』には内田巌による谷崎の肖像画は含まれてゐない。