日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

北沢二丁目橋本英吉の昭和二十年夏

中野重治が書いた徳永直の追悼文(全集18巻所収「やはり早すぎた」)中に、かういふ記述がある。

世田谷の経堂、豪徳寺へんに互助会というのがあつた。戦争でひどくうるさくなつたころ、月一回くらい集まつてなにがな心やりにしやべり合うという集まりだつたが、昭和十三年に世田谷へ移つてきた私もそこへ入れられた。そのなかで古い社会主義者の服部浜治老が死んだ。朝日新聞の稲庭《いなにわ》謙治さんが死んだ。それから内田巌が死んだ。それから村雲|大樸子《だいぼくし》が死んだ。それから大竹博吉が死んだ。それから徳永が死んだ。内田から四人は続けて癌で死んでいるが、稲庭さんもさかのぼつて癌だつたのではないか疑われてくる。
だれが徳永と一番関係が深かつたか。議論とかいうことを離れていえば、橋本英吉が一番関係が長かつただろう。弾圧(この言葉はどうも好きでない。)と戦争との時期、心が屈してどうにもやりようのないような時分に、橋本と徳永とがおもしろくもなさそうな顔をしてそれでも熱心に碁を打つていたのを思い出す。
そういう時分に、いろいろと考えた末、徳永があの印刷の歴史、日本の活字の歴史を書いた。あのときは、徳永は非常に勉強した。

過日眺めた間宮茂輔の記述には名前が出てこなかったんだども、炭鉱労働者から共同印刷(博文館印刷工場)を経て作家になった橋本も、実は世田谷組だったらしい。
東京荏原都市物語資料館によると、『東京大空襲・戦災誌』第四巻(1973、東京空襲を記録する会)に、八月十五日について記した橋本英吉の日記が掲載されてゐるのだといふ。
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/30513414.html
同書を借覧すると、抄録された『海野十三敗戦日記』の次が、橋本英吉の『終戦日記』抄録となってゐた。編者によってつけられた解説には、かうある。

二〇年、世田谷区上北沢にあった(横光利一疎開していた)家にとどまり、『富士山頂』の完成に取り組む。日記は一部を同人雑誌に発表したが、他は散逸、ここには残った全文を収めた。

ちなみに、東京荏原都市物語資料館の上記記事は横光邸の所在地を「北沢二丁目145番地」であると訂正しておいでである。
日記の「残った全文」は、八月十三日から十五日のもの。「五分間の幸福――『終戦日記』より――」といふ表題がつけられてゐる。
十四日には、ポツダム宣言受諾を政府に働きかけるよう市民に訴えるビラがB29によって散布され、北沢二丁目界隈にもビラの固まりが投下されている。

おそろしく稚拙な日本文で、一度読んだぐらいでは意味が分らなかった。記念にと思って十枚ばかり拾って帰って本棚に隠した。

続く十五日の日記には、十四日深夜から十五日早朝にかけて、「敵機」が各地に襲来していること、橋本自身午前五時すぎの艦載機襲来で目覚めたことが記された後、「五分間の幸福」のことが書かれてゐる。

井戸端で茶をのむ。大事にしていた「光」を二本のむ。乾したイタドリの葉をまぜた手巻きの煙草とは比べものにならない。ジャガ芋を五個たべる。焚火で汚れた手のまま「唐詩選」を読む。五分間の幸福。

その後は、正午の放送を、じりじりと待ってゐる。
橋本英吉の『終戦日記』は、いつ頃からいつ頃までのことが記され、発表されたのだらう。
徳永直が宮城県疎開するのは、妻トシオの死後、昭和二十年七月二十四日のことである。中野重治の回想にある、橋本英吉が徳永直と碁を打つ姿など、「同人雑誌に発表」された部分に記されてゐたりしなかっただらうか。
発表された同人雑誌の手がかりが全く得られず悔しい思ひをしてゐる己だ。
ちなみに『富士山頂』は鎌倉文庫『人間』の昭和二十一年七月号から十月号に連載され、後に映画にもなっている。
とりあへず、間宮茂輔『三百人の作家』の他、『戦旗』編集者だった立野伸之の『青春物語』と、高橋英夫鎌倉文庫と文芸雑誌「人間」』(asin:4872362535)ば眺めておくべかと思案中。