日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

徳永直知人のS司書と徳永がS17に通ったS子爵邸のS文庫

以下、来春書かれる予定の未来日記、兼12月1日付の記事さogwataさんから頂戴したコメントへの返信。
……
徳永直がサミュエル・ダイアの事跡を発見する手助けをすることとなった、東大図書館で「司書をしている知人のS氏」が澁川驍であるのか否か。
丸善支那叢報の復刻版を出しつつあった昭和十七年当時には、東京帝国大学附属図書館の司書をやってゐた二人のS氏がゐた。一人が澁川驍で、もう一人が関敬吾
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20091122
東京大学附属図書館編『図書館再建50年』(1978)が澁川の在籍を昭和十四年六月までとしてゐる一方で昭和十四年七月一日現在の『職員録』には澁川在籍になってゐるから、実際の在籍期間を確認するため、澁川驍が『書庫のキャレル』中に記した昭和十八年〜二十年頃の出来事に関係する相手方の記述を求めて、高見順日記、上林暁全集を通り過ぎ、徳田秋聲全集を斜め読みしながら平成二十一年を暮らした。
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20091125
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20091201
澁川驍が同人だった『人民文庫』に徳永直は、昭和十二年、旧作の再掲と新作の連載を行ってゐる。これまでのところ徳永とは何の繋がりも見えてこない関敬吾よりは、澁川が「知人のS司書」である可能性が高い。
……
気分転換を兼ねて、河出書房版『光をかかぐる人々』を青空文庫用に電子化したデータをAJ1-4化する作業を進めてゐた己なんだども、ふと、もう一人の「S氏」が河出版に出てきてゐて不明のままだったことを思ひ出した。本木昌造の事跡、日本の活字の歴史を探し求めてゐる徳永直が、河出版第六章「開港をめぐって」の第一節冒頭で、かういふ感慨を漏らす。

 昭和十七年の夏の終り頃には、私は麻布二之橋のちかくにあるS子爵邸のS文庫に、書物をみせてもらふために通つてゐた。夕刻ちかくになると書物を棚にもどして、子爵邸前のだらだら坂をおりてくるが、どうかしたときは二之橋の欄干につかまつて溝《どぶ》ツ川のくろい水面をみつめながら、ボンヤリ考へこむことがあつた。
 自分は活字の歴史をさがしてゐるのに、何で「嘉永の黒船」や「安政の開港」などを追つかけまはしてゐるんだらう?
 一種の錯覺に似た、氣弱な不安が起るのであつた。たとへばS文庫のうすくらい片隅の机で、私は借りた書物のうちから、はじめは「昌造」の名ばかりさがしてゐる。幕府時代の公文書とおぼしきものから、年時や事件を繰りあはせてさがしてゆく。ちかごろでは「本木」とか「通詞」とか「活字板」とかいふやうな文字は、どんなに不用意に頁を繰つてゐても、むかふから私の眼のなかにとびこんでくるやうになつてゐたが、またそれと同時に、私の興味は活字などとは凡そ縁のないやうな、昌造とさへ直接には關係のない、いろんな他の文章にも魅かれていつて涯しがないやうであつた。
 私は日本の近代活字の誕生が知りたいのであつた。それで私はその代表的人物本木の生涯や仕事を知りたいのであつた。その昌造は通詞といふ職業で、「黒船」にも「開港」にも關係してゐた。從つて私はプーチヤチンもペルリも、水戸齊昭も川路左衞門尉も、その他いろんなものをおつかけてゆくのであるが、しかもその間を容易に斷ち切ることが出來ないでゐる。私は脱線してゐるのであらうか? 木に據つて魚をもとめてゐるのであらうか?

http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/20090330
確か麻布台地の天辺にかつて仙台藩伊達家の江戸屋敷があり、屋敷跡にちなむ「仙台坂」を下ると「麻布二之橋」だったはず――、とGoogleマップを眺めてみる。確かに位置関係はさうなってゐるんだども、仙台坂上から二の橋にかけて、ストリートビューが無効になってゐる。
麻布台地の一部は、猪瀬直樹ミカドの肖像』(asin:4094023127)が扱った旧皇族所有地の件以前、大正末年から昭和初年にかけて、土地を手放さざるを得なくなった柳原伯爵(麻布桜田町=六本木寄り)や後藤子爵(麻布本村町=三ノ橋付近)など旧華族らの元所有地を箱根土地株式会社が分譲してゐたりする「高級住宅地」でもあり、戦前の区分詳細地図を片手に麻布台地をうろついてみれば、昭和十七年当時にも存在したS子爵邸について、何か判るだらう。
……
己は脱線してゐるのであらうか?
……
平成二十二年の旧正月を過ぎ、徳田秋聲全集も必要と思はれる箇所は読み終へたので、いったん澁川驍を離れて、もう一人の「S司書」である関敬吾に取りかかる。
ちなみに、昭和十七年に関敬吾は、柳田国男との共著として『日本民俗学入門』を改造社から出してゐる。改造社版を眺めてみたんだども、当時の肩書等は記されてゐない。
関敬吾選集第七巻に収められた『日本民俗学の歴史』の「3 現在の民俗学研究(昭和十年ー三十二年)」中「(1) 日本民俗学の基礎づけ」の項目を、関は、かう書き出してゐる。

昭和九・十年は、大正三年の『郷土研究』、同十五年の『民族』発刊に次いで、日本民俗学の発展途上第三の重要な時期であろう。
柳田は、個々の実証的研究とともに、民俗学的方法樹立のためにいくつかの理論的研究を発表したが、さらに昭和七年の『郷土史研究の方法』、これにつづいて、昭和八年九月以降、十数回にわたって「民間伝承論」を講義した。これは後藤興善が筆記をもとにしてまとめ、翌年刊行された。この講義が契機となって「木曜会」が組織され、昭和九年一月第一回の会合が開かれた。

柳田の指導のもとに、木曜会のメンバーが中心となって「郷土生活研究所」を組織し、昭和九年五月から三年間にわたり、日本学術振興会の援助により「日本僻陬諸村における郷党生活の資料蒐集調査」がおこなわれ、――引用中略――その結果は十三年『山村生活の研究』として公表された。
ついで柳田の還暦を記念して、十年七月一日から六日間、日本青年館で「日本民俗学講習会」が開かれた。その聴講者は、青森から沖縄にいたる全国にわたり、その人員は一二六名に及んだ。その時の講演は、座談会記録とともに『日本民俗学研究』(昭和十年)として出版された。その内容は、「採集期と採集技能」(柳田國男)、「地方にゐてこころみた民俗研究の方法」(折口信夫)、「アイヌ部落採訪談」(金田一京助)、「南島稲作行事採集談」(伊波普猷)、「民間信仰の話」(杉浦健一)、「海の労働」(桜田勝徳)、「昔話の採集」(関敬吾)、「冠婚葬祭の話」(大間知篤三)、「共同労働の慣行」(橋浦泰雄)、「交易の話」(最上孝敬)、「方言研究と郷土人」(後藤興善)、「民俗学と人文地理学の境」(佐々木彦一郎)、「独墺の民俗学的研究」(岡正雄)、「フランスの民俗学研究」(松本信広)などであった。

かうして、昭和十年代の関敬吾の民話研究者としての活動がおぼろげには見えて来たわけなんだども、「S司書」としての活動は、判らない。
……
徳永直は、昭和十五年五月、皇紀二千六百年を記念する「日本文化史展」における印刷史の扱ひの不正確さを不満に思ひ、また米国の学者がグーテンベルクを文化史上最大の偉人であると位置づけてゐることに比して本邦における本木昌造等の扱ひが軽いことを省みて、『光をかかぐる人々』執筆の動機としてゐる。
http://awozolab366.seesaa.net/article/135727586.html
http://awozolab366.seesaa.net/article/135910196.html
ところで周知のやうに、本木昌造・平野富二の東京築地活版製造所が「解散」するのはこの直前の昭和十三年のことだ。築地活版の解散は、“本木昌造の偉業”と共に新聞などで報じられなかっただらうか。懐古記事など、書かれなかっただらうか。
県立図書館で縮刷版を眺めてみた限り、少なくとも東京朝日新聞では見出しが出るほどの記事にはなってゐない模様なんだども、法政大学大原社会問題研究所に、興味深い資料があることに気づいた。
「株式会社東京築地活版所ノ会社解散ニ伴フ労働争議ニ関スル件」と題した、警察の調査報告資料である。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/kyochokai2/r025/index.html
「第三報」の044.pdfから045.pdfにかけて、かういふ記述がある。

四月二日ヨリ電燈料未納ノ故ヲ以テ電燈會社ハ會社ニ對スル送電ヲ中止セル爲メ應召事務ハ全然不可能トナリ爲メニ赤澤清算人ハ會社財産保全ト稱シ浦部ト協議ノ末四月三日字母約七百貫(眞鍮台)ヲ小石川指ヶ谷一四六ニ搬出係営スルニ至レリ

この小石川区指ヶ谷町といふのは、現在の文京区白山一丁目、二丁目、四丁目、五丁目の一部となってをり、北は東洋大学白山キャンパスのあたり、西は同白山第二キャンパス、南が白山二丁目交差点あたり、東が国道17号あたりまでの範囲である。このあたりは、徳永の代表作『太陽のない街』が記す大正十五年の共同印刷争議の舞台の一部でもある。主要な舞台は、小石川植物園と大塚三丁目にある教育の森公園との間、「千川ドブ」が流れる谷間の長屋街である「太陽のない街」なんだども、「白山坂上」など、白山通り側の地名も散見される。
試みに「小石川区指ヶ谷」をネットを検索すると、平岩米吉『私の犬』を「東京市小石川区指ヶ谷町一四六」の大森精一が昭和十七年七月に刷ってゐることが判る。前線慰問誌『比企』の表記によると、印刷者が「東京市小石川区指ヶ谷町一四六」の大森精一で、印刷所は「東京市小石川区指ヶ谷町一四六」の大森印刷所となってゐる模様。
http://d.hatena.ne.jp/spin-edition/20090729
http://blog.goo.ne.jp/rekisibukai/e/ad7993a32448e1a97bee48335e6c7767
己は、この大森印刷所の手がかりと、「S子爵邸」を探してみるため、上京することにした。
……
車中の友に、「民俗学を学ぶマルクス主義者」といふ副題を持つ鶴見太郎柳田国男とその弟子たち』(asin:4409540564)を選んだ。三四-三五頁の表、「木曜会主要メンバー」を見ると、橋浦泰雄の名と、橋浦から一人おいて隣に関敬吾の名が見える。

研究者氏名 出身・学歴 柳田との関連 政治活動 戦争中の動静 備考
橋浦泰雄 鳥取・高等小学校 大正十四年個人的に師事 第二、三回メーデーで検挙/生活運動指導 『民間伝承』の編輯・発行、画集 戦後、日本共産党入党
関敬吾 長崎・東洋大学専門部 昭和八年木曜会参加 一時、唯物論研究会に参加 民族研究所嘱託 戦後、比較説話の領域に業績

柳田国男とその弟子たち』に導かれ、中野重治柳田国男と奇縁を持ってゐたことも知った。中野重治全集第十九巻に収められた「無欲の人」及び「折り折りの人 一 柳田国男」によると、「橋浦泰雄満五十歳の会」の前後、中野は「常民研究所(?)」への就職斡旋を柳田国男に依頼し、柳田は斡旋を引き受けたといふ。
また、昭和二十年六月、終戦間際になって招集された中野は、妹の鈴子にあてた「遺言状」さ、「柳田国男氏に深く感謝す」と書き残したらしい。
中野重治は「折り折りの人」さ「柳田さんのことを私は大間知篤三や橋浦泰雄からよく聞いていたが、この人をはじめて見たのは橋浦泰雄満五十歳の会でだつたと思う」と書いてゐるんだども、この柳田門下生だった橋浦は、ナップ(日本無産者芸術連盟 Nippona Artista Proleta Federacio)の橋浦泰雄として、ナップの機関誌『戦旗』に『太陽のない街』を連載し同誌の看板作家となっていった徳永直とも当然つながりがある。橋浦を通じて「S司書」こと民俗学研究者の関敬吾を知ってゐても不思議ではない。
ちなみに中野が「折り折りの人」に「常民研究所(?)」と記したところは、正しくは「常民文化研究所」であるやうだ。鶴見『柳田国男とその弟子たち』一三〇頁に、かうある。

かねてから柳田は中野の文章に接しており、追い詰められた中野が渋沢敬三のアチックミューゼアム(常民文化研究所)への就職を依頼した時、この種の問題に極めて厳しい柳田は、珍しく仲介に立つことを辞さなかった。

同書の当該箇所への注釈によると、「但し、この時の中野のアチックへの就職は実現しなかった」とのことである。
東京に近づく車中で、己は一人、澁川驍よりも関敬吾が徳永直の「知人のS司書」である可能性が高まってくる気配に興奮を抑えきれないでゐた。
当初の予定では大森印刷所の手がかりを先に探し求めるつもりだったんだども、急遽、都立中央図書館経由で二ノ橋界隈を見ることにした。
……
まだ二月だといふのに、日比谷線広尾駅から有栖川公園へ向かふ道に立ち並ぶオープンカフェに大勢の客がつめかけてゐる。各国の大使館が近所にあるためか、テーブルについてゐる顔ぶれも様々だ。二月にオープンカフェとはトーホクでは考へられない季節感だども、確かにトーホクの冬装備で町歩きをすると、汗をかくくらいの気候。パリで地球温暖化加速の非難を浴びた野外暖房器具なども、これでは必要ない。
とはいへ公園内では真冬らしい格好の若い夫婦が着ぶくれした幼児を散歩させてゐたりする。
広尾駅から行くと公園の最奥部・最高部にある図書館に辿り着き、まず『中野重治全集』第十九巻を閲覧して『柳田国男とその弟子たち』の言及を確認し、続いて昭和十六年に地形社が出した『大東京三十五区区分詳図』の一部を複写した。そして図書館を出ると、拡張現実アプリ「セカイカメラ」を起動したiPhoneを右手に、麻布区の詳細地図を左手に、そのまま仙台坂上から二の橋交差点に向かって仙台坂を下りながら、仙台坂に「S子爵邸」候補が無いことを確かめていった。
仙台坂を下りきり、二の橋交差点を渡る。次の坂を少し上ると、「日向坂」の碑が建ってゐる。道路を挟んで碑の反対側(南側)にある「三田共用会議所」を眺めると、平成四年まで、敗戦時に渋沢敬三が物納した旧邸が共用会議所として使用されてゐて、同年三沢に解体移築された後に現在の建物が造られたのだといふ。
http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=51
http://www.minpaku.ac.jp/special/200103/01.html
河出書房版『光をかかぐる人々』さ徳永が昭和十七年の夏に通ったと書いゐる麻布二之橋ちかくのS子爵邸のS文庫というのは、当時の芝区三田綱町、現在の港区三田二丁目で「共用会議所」になってゐる地所にあった旧渋沢敬三子爵邸内のアチック・ミューゼアム(昭和十七年に「日本常民文化研究所」へ改称)のことと見て間違ひないだらう。
N研究所やJ研究所ではなくS文庫と称したのは、敵性言語を避けて改称することとなった時局ゆえ、転向作家が大蔵大臣の私邸を訪れてゐることを憚ったものか。
……
己はそのまま歩き続け、慶應義塾大学を通り過ぎ、三田線に乗り込んだ。北の丸近くの東京法務局が旧小石川区、現在の文京区を管轄してゐるので、「東京市小石川区指ヶ谷町一四六」にあった大森印刷所の登記情報が閉鎖謄本となって残されてゐたり、或はどこかに移転して現存してゐたりはしないかと考へたのだ。
登記の請求書式に「小石川区」と書かれてゐるのを見た受付嬢が、法務局には各々管轄があって他地域については当該地区の法務局に云々と言ひだしてみたり、いやいや小石川区は現在の文京区のことなんでこちらの管轄ぢゃないでせうかと言ひかえしてみたりといったやりとりを経て、コンピュータ化以前の書類を含めて過去の資料を引っ繰り返してもらへることとなった。
数年前に登記情報がコンピュータ化されて以来、申請から受け取りまでは長くても十数分で大概用が済むんだども、今回は、普通の申請ではない。
待つこと小一時間。
残念ながら、大森印刷所に関係する記録は見あたらないといふことだった。
……
東京法務局に隣接する千代田区役所庁舎の食堂で、まだ冬景色の北の丸を眺めながら遅い昼食を摂った後、神保町から再度三田線に乗り込んで春日町で下車。春日通りの急坂を、乳母車を押しながら休み休み上っていく若い母親を早足で追い越し、文京区立真砂中央図書館に向かふ。
昭和六年に内山模型製図社が出した『東京市小石川区地籍図』と『東京市小石川区地籍台帳』を閲覧・複写するためだ。
初めて見る「制服姿の派遣図書館員」に驚きつつ、私服姿の職員がゐるレファレンスカウンターへ。
地籍図の大きなファイルを拡げ、「指ヶ谷町一四六」を探しながら、地籍台帳を繰る。指ヶ谷町の記載は、全十二頁。どうやら「指ヶ谷町一四六」の土地所有者は、萩原某一名に限られるやうだ。
縮尺が千二百分の一である地籍図は、「指ヶ谷町南部」に当該地を含むと判った。
……
わざわざ上京する前に気づくべきだったんだども――“谷底”に屹立する文京シビックセンター25階の展望台から白山通り方向を眺めながら、己は一人で反省会を開いた。――「小石川区指ヶ谷町一四六」といふのは「一四六番地」の意味であり、複写した「指ヶ谷南部」地籍図を現況に照らし合はせると文京区白山一丁目7番地から14番地あたりの、相当に広い範囲を含む。
現在も白山一丁目13番地には、長野本社に膨大な字種の本文サイズ漢字活字を有したことで名高い蔦友印刷株式会社の東京支社があるんだども、往事、その界隈には多数の印刷所や製本所などがあっただけでなく、そもそも東京築地活版製造所の字母を「小石川指ヶ谷一四六ニ搬出」した先がどんな場所であるのか、印刷出版関係の会社なのか、全く無縁の空き倉庫のやうな場所なのか、はたまた誰かの大邸宅であったりするのか、実は番地以外の手がかりは現在の己に何も無い。
展望室内を移動し、北東側を眺めると、かつては小石川植物園あたりからも眺められたはずの東京大学附属図書館の「四本の尖塔」はマンションの陰に隠れて見えず、安田講堂の時計台が本郷郵便局の後ろから顔を出してゐるのみである。
里山へハイキングにでも出かけるやうな格好をした六十歳過ぎと思はれる女性が、己に話しかけてきた。
「マンションなんかが建っちゃってねぇ、東大の建物は見えなくなっちゃったのよ」
「ああ、さうみたいですねぇ」
「昔はよく子供を連れて東大病院に通ったのよ」
「さうですか」
「ここから見ると近くに見えるけど、結構遠いのよ」
「さうですねぇ、建物がこんなに小っちゃく見えてますもんねぇ」
五十年ほど前と思しき頃を回想する彼女の横で己は、見えない東大図書館の、昭和十七年、地下書庫の情景を想った。
麻布二之橋ちかくのS子爵邸のS文庫といふのが渋沢敬三のアチック・ミューゼアムで間違ひなからうことや、柳田国男門下にナップの橋浦泰雄がゐたことなどから察すると、徳永直がサミュエル・ダイアの事跡を発見するきっかけをつくった、東大図書館で「司書をしている知人のS氏」といふ人物は、小説家であり司書をしてゐる澁川驍ではなく、柳田門下の民話研究者であり司書をしてゐる関敬吾だった可能性が高いと見るべきだらうか。
……
かうして、東京築地活版製造所の字母の行方について結局は何も明らかにし得ないまま帰途につくこととなった。
帰りの車中の友は、八重洲ブックセンターで買ひ求めた文春文庫版の佐野真一『旅する巨人』(asin:9784167340087)。裏表紙によると、「瀬戸内海の貧しい島で生まれ、日本列島を隅から隅まで旅し、柳田国男以来最大の業績を上げた民俗学者宮本常一パトロンとして、宮本を生涯支え続けた財界人・渋沢敬三。対照的な二人の三十年に及び交流を描き、宮本民俗学の輝かしい業績に改めて光を当てた傑作評伝。」である。
読み進めると、八四-八五頁に、次の記述があった。

慶応大学の下からつづくゆるやかな坂をのぼって行くと、あたりは大きな屋敷ばかりが建ち並び、昼だというのに人影はほとんどなかった。坂塀でかこわれた渋沢邸の門をくぐったとき、宮本はその屋敷のあまりの広大さに目をみはった。五千坪の敷地にはテニスコートまで設けられていた。明治年間に建てられた和洋折衷の屋敷には大小三十三もの部屋があり、建て坪は三百三十坪(約一千平方メートル)にも及んでいた。
アチックの研究員や渋沢家の使用人などあわせて五十人近い“渋沢村”の住民が、この広大な屋敷で、毎年、運動会を開いているほどだった。
右手には、主に漁業関係の民俗を調べる祭魚洞文庫の建物があった。祭魚洞とは渋沢の雅号だった。渋沢は魚を捕えるとすぐには食べず、あたりに放置しておくカワウソの習性にちなみ、いつも本の散らかっている自分の書斎に皮肉をこめ、その巣を意味する名を自分の雅号として選んでいた。

なるほど、S子爵邸こと渋沢敬三邸には、アチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)と並んで、祭漁洞文庫なる施設があったのか。
徳永直が資料閲覧の帰途にふと自分の作業に疑問を感じた「麻布二之橋のちかくにあるS子爵邸のS文庫」とはつまり、「渋沢子爵邸の祭漁洞文庫」であったのだ。
http://www.kanagawa-u.ac.jp/05/ken_nihon/04/index.html
ひとつだけ確実なことを掴んだらしく思はれる、さういふ手応えを得たことを喜びながら栞を挟み込み、『旅する巨人』を閉ぢた。
……
さて、以上を己は、『増補改訂版「光をかかぐる人々」』において、《「麻布二之橋のちかくにあるS子爵邸のS文庫」への注釈「渋沢敬三子爵邸の祭漁洞文庫と思はれる」》といふ文言と、《東大図書館で「司書をしている知人のS氏」への注釈「澁川驍または関敬吾と思はれる」》といふ文言のみに限定するクールな編集校訂者の立場で記述することができるだらうか。
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20091103
たったこれだけの注釈は、おそらく、当時の文化状況に明るい人物であれば、自身の学識の範囲でたちどころに書き添えてしまへるだらう。
自分は「印刷史家」として『光をかかぐる人々』に出会ったはずなのに、何で「S司書」や「S子爵邸」などをこれほど熱心に追っかけまはしてゐるんだらう?
日本語活字印刷文化史の研究史において特異な地位を占めるはずの徳永直『光をかかぐる人々』(「前編」+「続編」)は、文学史上の一部の好評のみを得て、印刷史上の適切な評価を得ないまま今日に至ったらしく見える。
http://d.hatena.ne.jp/uakira/20090529
己はあくまで、日曜印刷史研究者の立場から言へること、言ふべきことのみを書き添へるに留め、印刷史以外の面での注釈は、しかるべき人物に任せた方がいいのではなからうか。
大橋の上をわたる広瀬川の風に、そんな気弱な不安を洗い流してもらいながら、『柳田国男とその弟子たち』を東北大学附属図書館に返却するため青葉城大手門への坂を上る。
今の己にとって重要なのは、自分がかうした調べものを心底愉しんでゐるといふ事実であって、もともと余暇活動に過ぎない印刷史家といふ狭い枠組みに、自己限定をする必要などありはしない。
……
閑話休題。まだAJ1-4化には着手してをらず、本日は徳田秋聲全集の続き、第十九巻、二十巻、二十三巻を眺めた。どうも東大図書館訪問のことは記されてゐないらしく見える。――と、iPhoneば持ってない己は現在の日記さ書いておく。