日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

Gaskell「Type Sizes in the Eighteenth Century」メモ

Philip Gaskell「Type Sizes in the Eighteenth Century」(1952/53『Studies in Bibliography』5巻147-151頁)を読んだ。

「活字サイズ」というのは活字ボディの寸法であって文字ヅラの大きさのことではない。

欧文活字の場合――Gaskellによれば――通常大文字(upper case)しかレパートリーを持たないtitling(見出し)活字と、大文字と小文字(lower case)の双方を含むtxet(本文)活字では同じボディーサイズでも文字ヅラの大きさが違っていてtitling活字はボディー目いっぱいに近い大きさに大文字が鋳込まれる(text活字では小文字のディセンダーの分だけ〈大文字の〉文字ヅラが活字ボディーに比べてだいぶ小さくなる)。

――ということを前提に、にも拘らず例えばAlexander Wilson and Sonsの1772年活字見本帳では上記の常識的な活字セットだったところが、同1773年見本帳ではtitling活字なのに小文字も含まれるようになっており、これはCaslonやFryの見本帳でも同様、と。

Gaskellは2つの可能性を指摘していて、1つは例えば「5 Line Pica」と名付けたtitling活字――おそらく従来大文字のみのセットでPica活字5倍にほぼ等しい文字ヅラをPica活字5倍のボディーに鋳込んでいたもの――をPica活字6.75倍とかに鋳込んでいる状態。もう1つは、小文字「g、j、p、q、y」のディセンダーを「カーンド」の状態に鋳造しているケース。

こうした活字に関しては、印刷物から実ボディーサイズを推定するのは難しい。

Picaなど旧称で活字サイズを示す場合titling活字なのかtext活字なのかを併記しておかないと混乱の元だ――とGaskellは書いているのだけれど、solid組なのかどうか判らないような資料がある以上「20行サイズ」方式であっても「実際の活字サイズ」を示すのは困難を伴うよ……と思った己だ。

1850年頃の上海London Mission Pressが使っていたLong Primer活字

上海美華書館のWilliam Gambleが長崎の本木昌造に伝えた漢字活字群のうち、ロンドン伝道会(LMS)ルートで開発されて上海に渡った「一号=Double Pica」活字と「四号=Three-Line Diamond」活字。

LMSの印刷物で「四号」漢字活字と同時に使われている、一見すると四号の3分の2サイズに思われる欧文活字の実際の大きさはどのようなものだったかということが知りたくて、昨秋初めて一橋大学附属図書館を訪れた。日祝も開館している、ありがたい大学図書館のひとつ。

目当ては1852年に上海のLondon Mission Pressで印刷された『Reply to Dr. Boone's Vindication of Comments on the Translation of Ephes』で、Internet Archive公開されているハーバードの資料によって、往時の本文用欧文活字をメインに四号漢字活字を少し交えて刷られている印刷物であることが判っていた。

検索で所蔵を確認していた一橋本(Og687)は、実際には他の様々なブックレット類*1を合綴したもの(Miscellaneous on China)になっていて、この末尾近くに当該資料があった。

『A dictionary of the art of printing』に掲げられている1841年の英国主要活字ベンダーの活字サイズ表を参照しつつ88行/ft〜92行/ftの刻みでLong Primer用活字スケールを作っていた訳なのだけれども、この目盛りでは計りきれなかった(92行/ftよりも小さかった)。

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欧文活字用「内田スケール」Long Primer/Small Pica/English

考えてみれば、「四号=Three-Line Diamond」漢字活字が概ね4.80〜4.81mm角だということが事前に判っていて、その3分の2程度の大きさだという目算が立っていたのだから、LMSのLong Primer活字が3.2mm程度の大きさ――つまり95〜95.25行/ft程度の小ささである可能性を考慮したスケールを作っておかなければならなかったのだ。

実際にはLeading無し48行分の行高が約158.5mm(計算上20行サイズが略66mm)だったので、このLong Primer活字の大きさは「四号」活字の3分の2よりは少し大きく、3.302mm(92.25行/ft)程度であろうと思われた。

ちなみに、『A dictionary of the art of printing』に記されているLong Primer活字の寸法は、Caslon社が89行/ft(約3.42mm)、V. and J. Figgins社が90行/ft(約3.39mm)、Thorowgood and Besley社が92行/ft(約3.31mm≒20行サイズが66.25mm)、Alexander Wilson and Sons社が89行/ftとなっている。

国会図書館が持っている推定1870年代のH. W. Caslon社の活字見本帳『Specimens of printing types of the Caslon Letter Foundry』に掲載されているLong Primerは実測で89行/ft。印刷博物館が持っているMS&J社の1878(明治11)年見本帳と1888(明治12)年見本帳に掲載されているLong Primerは89.5〜90行/ft。

このくらいの違い(20行サイズが66.0mmか66.25mmかという違い)なら、LMSの欧文活字はThorowgood系統の可能性が高い――と思ってしまっていいだろうか。Thorowgoodの活字見本帳を幾つか実測してみたら、Long Primerが92行/ft~93行/ftくらいの揺らぎがあったりするんだろうか。LMSの他サイズの欧文活字も改めて計ってみなければ……。

*1:W.H. Medhurst「Reply to the few plain questions of a brother missionary, (published in the Chinese repository for July 1848)」他

Bowers「Bibliography, Pure Bibliography, and Literary Studies」メモ

Fredson Bowers「Bibliography, Pure Bibliography, and Literary Studies」(1952年『The Papers of the Bibliographical Society of America』46巻3号)を斜め読み。

山下浩氏によって、

英米の書誌学会は、通常 Pure Bibliography といわれる印刷工程や植字工、活字、製本等を含む細かい基礎研究をベースに、出版史(書物史)、印刷史、本文研究、全集編纂、各種の書誌編纂等、実に多くの分野に関心を示している。

――という具合に「Pure Bibliography」という語が紹介されている(http://www008.upp.so-net.ne.jp/hybiblio/4_04.htm https://www.hiroshiyamashita.com/4_04.htm)のを見てから気になっていたペーパーなのだけれど、なかなか手に取るまでに至らなかった。

で、斜め読みしてみて。

自分が読み落としたかもしれないのだけれど、Bowersは少なくともこのペーパーでは上述の「細かい基礎研究」のことを「Historical Bibliography」および「Historical Bibliography」に基づく「Analytical Bibliography」――この「分析書誌(学)」というのは、Walter Wilson Gregの概念を受け継ぐもののようだ――と呼んでいて、「Pure Bibliography」という語の定義を直接的には行っていないっぽい。

途中で「pure form of analytical bibliography」云々というくだり(194頁)があるから、ここから10〜20年くらいの間の英米の書誌学会の歩みの中で、分析書誌(学)の手法が「Pure Bibliography」という呼び名で定着していったってことか?

W. W. Greg「What is Bibliography?」もいずれ見ておきたいと思うけれど、あちこち検索してみた感触では、『Collected Papers』に纏められた形でしか今はアクセスできないっぽい。

2019年の抱負

2018年、横浜開港資料館「金属活字と明治の横浜」のあれやこれやが落ち着いたら再開しようと思っていた府川充男撰輯『聚珍録』(三省堂、2005)愛読者Wiki(暫定版)」の作業は、結局手をつけないままになってしまった。今年も多分、優先順位は低い状態になってしまいそう。

「ウチの野郎ッコ」の高校受験。2月(前期)でケリがつくか、3月(後期)になるか。年度末の業務を整理して、卒業式には野郎ッコたちの勇姿を拝みに行かねば。

昨秋はじめて訪問させていただいたKD文庫の再訪――少なくとも先日お見せいただいた和文系資料の残り分の基礎調査は、新年度早々に着手したい。そのためにはまず、一昨年うっかりポチってしまった明治36年版秀英舎製文堂総数見本を素材にして、見せて貰おうかA4ブックエッジスキャナの性能とやらをを確認しておかねばならない。モノクロ600dpiでのスキャン速度は、dynabook R732/39Fを親機にした場合で、どの程度になるのか、さて。

何年も懸案事項になっている仮称「博聞四号」基準標本づくりや、改めて光をあてておくべき存在であることを強調したい都式五号・六号の基準標本づくり。今年のうちにやっておかねば、仮称文字呑み本(←この呼び名は「もじのみほん」の仮称のパクリ)に悔いを残すので、今年こそ。

筑波技術大学の特別講座、お声がかかるかどうか判らないけれど、心の準備はしておく。

せんだいメディアテーク活版印刷工房活版印刷研究会、新年度になったら、予備の活字棚を活用して、隠れ在庫になっている初号、新三号、新四号活字等の整理に取り掛かりたい。自分とKさんが揃って活動している時期じゃないと、たぶん手をつけられないだろう。

昨夏お誘いいただいた、とあるアンソロジーが、今夏出る予定。

明暗

妻と結婚し仙台で同居するようになってから今週で満20年が経過。

さきほど、3年前の交通事故以来意識不明の状態だった義弟の訃報が届いた。享年48*1

*1:実際には、満48歳となる誕生日まで10日を切る、そういうタイミングだった。

『活版印刷史』川田久長の履歴について

印刷史研究の大家であり印刷図書館の初代館長を務めた川田久長の戦前の履歴については、およそ次のように紹介されている(増補改訂版である昭和56年版の川田久長『活版印刷史』「刊行にあたって」より)。


川田久長先生がなくなったのは昭和三十七年七月五日である。明治二十三年五月二十五日生れであるから、七十二年の生涯であった。川田先生は大正二年、東京高等工業学校卒業後、いまの大日本印刷株式会社、当時の秀英舎に入社、昭和二十年まで勤務した。その間、昭和三年、日本印刷学会創立に努力したり、ドイツ印刷芸術展の開催に協力したり、あるいは英和書誌百科辞典刊行に力をつくすなど、日本印刷界の文化的な面において活躍された。

(中略)

このような本好きが、高等工業から秀英舎へと進ませたのであろう。「老鼓漫打」という文章が大日本印刷株式会社のPR誌(昭和三十六年発行)にあるが、その中で先生は秀英舎入社当時を次のように語っている。


筆者が入社早々配属されたのは、銀座にあった活字販売所――旧称製文堂――の二階の鋳造課の工務課であった。(中略)毎日鋳造された活字の数量を価格に換算して報告を作ることであったが、何銭何毛という日常には縁のない単位を扱うので、ソロバンを苦手の筆者には楽ではなかった。課長は中島六三郎という肥満型の勤直な好人物、新米の筆者はずいぶんその親切な指導後援を受けた。
とある。

今回、古い『印刷雑誌』の雑報欄を読み返していて、川田久長の戦前の履歴について再確認を要する情報を得たので、こうしてメモを残しておく。

第2次『印刷雑誌大正12年5月号の雑報欄に、「川田久長氏秀英舎に入る」という記事があった。

曰く「久しく九州帝国大学印刷所主任であった川田久長氏は今回東京秀英社の請聘を受け同大学を辞任し秀英社技師となり四月二十五日福岡市出発途上せり。」

国会図書館デジタルコレクションにある『東京高等工業学校一覧』(大正13-14年)の「卒業者氏名索引」を確認してみると、大正13年度までの卒業生で「川田久長」という名を持つ者は、大正2年に工業図案課を卒業した人物のみのようである。

そして、おそらくは大正12年時点での所属を調べたものであろう、各課の卒業生名簿から「工業図案課卒業者」の項を見てみると、大正2年7月に東京高等工業学校の工業図案課を卒業した川田久長(東京出身)の所属先は九州帝国大学になっている。

九州大学 大学史料室ニュース』第2号(1993年9月)の4ページには、九州帝国大学印刷所は1912(大正10)年12月に設置されたと書かれている。

ということは、『印刷雑誌』が「久しく九州帝国大学印刷所主任であった」と記しているものの、その期間は高々大正10年12月から12年4月まで、であろうか。

ちなみに昭和2年に刊行された『株式会社秀英舎創業五十年誌』で示されている、大正15年11月25日現在の「人員表」を見ると、川田久長は印刷課の課長となっている。

役員以外の役職者について、同書に示されている勤続表彰記録や、大正11年発行の『株式会社秀英舎沿革誌』の勤続表彰記録(こちらの方がより詳細)を見ると、大正15年時点の工務部長、商務部長、工務次長の三名が勤続25年以上での表彰を経験している他、各課では営業課長、用度課の課長・副課長、会計課長、活版課の課長・副課長、人事課長、鋳造課の副課長が勤続25年以上での表彰経験者となっている。

そして川田の次席である印刷課の副課長が大正8年の時点で勤続15年の表彰対象者となっている他は、少なくとも大正10年の段階で勤続10年に満たない者が課長・副課長となっており、川田久長も勤続が浅い一人である。

この時期の秀英舎で各課を指揮監督する役割を課せられた者は、いわゆる年功序列ということばかりではなく、それなりの高等教育を受けて早期に上級職位に就くことを期待された者たちや、同業他社等での経験を買われて引き抜かれてきた者たちということになるのだろうか。

九州大学 大学史料室ニュース』第5号(1995年3月)の4ページには、『九州帝国大学職員録』について、「九大大学史料室には、欠号があるとはいえ、1914年(大正3)〜1994年(平成6)の職員録が所蔵されて」いるとある。

その「職員録」には、国会図書館にも所蔵されている『九州帝国大学一覧』に記載のない、九州帝国大学印刷所の職員のことも記録されていないだろうか。

川田久長が九州帝国大学印刷所に在籍した期間――、いや、九州帝国大学に在籍した期間がいつごろからスタートするのか、いつか知りたいものである。

例えば、東京高等工業学校を卒業後すぐに秀英舎に入ったもののいったん九州帝国大学に転出し、改めて秀英舎に出戻った、というような事情があったりするのだろうか。

九州大学芸術工学部、あるいは大学文書館の関係者の方で、印刷史研究に興味をお持ちの奇特な方、あるいは大日本印刷に関係する方が、このあたりの事情を探ってお教えくださると、とても嬉しい。――もちろん、こうした「関係者」以外の方でも構わない。


以下2020年11月12日追記:

『東京高等工業学校一覧』を遡ってみたところ、川田の進路について追記すべき事柄が出てきた。大正3-4年版によると川田が最初に就職したのは日本橋区本町の写真新報社であったらしい。これが大正4-5年版から秀英舎第一工場になっている。

川田と同窓だったことが判った東京築地活版製造所の技師・宮崎榮太郎(大正6年7月、工業図案科卒)は、大正6-7年版によると卒業後すぐに築地活版に入社したようで、この年まで川田の所属は秀英舎第一工場。

大正7-8年版以降の川田の所属は(東京)六櫻社となっていて、大正9-10年版から九州帝国大学の所属となっている。『印刷雑誌』の記事に書かれていた「久しく九州帝国大学印刷所主任であった川田久長氏は今回東京秀英社の請聘を受け同大学を辞任し秀英社(ママ)技師となり」というのは、3年ほど九州帝国大学に出向いていた川田が秀英舎に出戻った状況ということのようだ。

#組版書誌ノオト(番外編1)昭和新編真宗聖典

味岡伸太郎書体講座』(asin:9784901835466、以下『書体講座』)164-166ページ「活字の時代にも詰め組はあった」で言及されている『昭和新編真宗聖典』を佐賀県立図書館からの相互貸借で閲覧させていただいた。

編集・発行は仏教婦人会仏教青年会連合本部で、印刷者は京都市北小路通新町西入の須磨勘兵衞。初版は昭和4年3月15日付での発行で、佐賀県立図書館本は昭和5年5月10日付の第15版。

『書体講座』にはこの『昭和新編真宗聖典』第1編14「御文章」から191ページの画像が掲げられている。

当該ページに見られる通り、漢字は9ポ全角のままで、仮名と句読点が本来の活字の上下を削って扁平ボディーに作られた形になっている。書体としては「築地電胎9ポ」のようである。よく見ると「略りやく」「願ぐわん」など漢字1字に3字分のルビが収められていることや、冒頭の「抑そも〳〵」のルビが読点にかからずに処理されていることなどが、ここに使われている活字が「9ポイント仮名付」であることを示している。

『昭和新編真宗聖典』第1編に収められている経典(例えば仏説無量寿経)の組み方を見ると、9ポ2分アキ、23字詰12行、句読点およびルビのブラ下げありで、版面は幅約70mm・高さ約107mm(+ブラ下げ)。9ポの漢字に対してルビ活字が4ポ半より大きく、親文字と微妙にズレながら組まれている。経典部分は「仮名付」活字ではなく、おそらく9ポの漢字に対して七号(5ポ25)のルビ活字と五号4分のインテルを用いて組んだのだろう。この場合版面の幅は199ポ875で、70.2mm程となる。ブラ下げを除く行長は9ポ34倍(306ポ)で107.5mm。

「御文章」などに見られる、9ポ系の漢字仮名交じり文は、字詰め不定13行、句読点などのブラ下げ無しで、版面は幅約70mm・高さ約110mm。「仮名付」活字であるため幅が13ポ半(9ポ+4ポ半)の活字と六号(7ポ75)4分のインテルを用いて組んだものでのようで、この場合版面の幅は198ポ75(約69.8mm)。

仮名文字がなるべく多数連続する箇所を計ってみたところ、仮名の縦方向は7ポ25程度と考えられた。9ポに対する80%であれば7ポ20であり、コンマ05ポイント(コンマ02mm弱)大きい。込め物の調整を考えれば9ポに対する75%(6ポ75)程度まで扁平率を高めたかったのかもしれないが、おそらくそれでは文字面が途切れてしまう割合が無視できないほど大きく、80.5%ほどの扁平率に留めたのだろう。

9ポと7ポ25の差である1ポ75という数値を考えてみると、これは7ポ4分に相当する(1.75✖️4=7.0)。手持ちの活版材料で行長をコントロールする、そのために扁平率を区切りのいい「9ポ80%=7ポ20」とせずに、「9ポ80.5%程=7ポ25」としたものと考えられる。

とすると行長は9ポ35倍=7ポ45倍(315ポ)で110.7mm程度ということなのであろう。

このような精密な活字サイズのコントロールが「9ポ活字の削り」によって実現できるとは考えにくく、これは9ポ母型(9ポ仮名付母型)を用いて最初からタテ7ポ25・ヨコ13ポ半(9ポ仮名付:9+4.5=13.5)に鋳込んだ仮名活字を使ったものと見てよいだろう。

おそらく句読点の扁平度合いも、漢字仮名交じり文を組む際の込め物に7ポ系しか使わなくて済むような値に設定されているのだろうと思われるが、十分に解析できるだけの能力と材料が乏しく、未詳である。