日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

横浜市歴史博物館 常設展示室ミニ展示「資料でたどる活字の歴史」

ここ30年ほど日本の近代活字史研究のメインストリームを牽引してきた小宮山博史氏のコレクションは、先日全23回で完結した「ダイナフォントストーリー」での連載「活字の玉手箱」でも「本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜開港資料館収蔵本による」と記されてきたように、元々は(府川充男氏との対談等で予告されていた通り)横浜開港資料館に預け入れられて整理が進められていたのだけれども。
その後、横浜開港資料館の指定管理者である横浜市ふるさと歴史財団が管理する、横浜市歴史博物館が正式な受け入れ先となって「小宮山博史文庫」の管理にあたることとなった。
今般、常設展示室ミニ展示「資料でたどる活字の歴史」として小宮山博史文庫の展示が始まっている。
横浜市歴史博物館は施設改修工事のため2019年8月1日から2020年3月31日まで休館となるので、7月中に横浜訪問のチャンスがある方は、ぜひどうぞ。

ウィリアム・ガンブルの日本滞在時期に関する記録

かつて上海にあったAmerican Presbyterian Mission Press(美華書館)の活版印刷技師だったWilliam Gamble(ウィリアム・ガンブル)が、「いつ」日本に来て「どれくらいの期間」滞在し、「どのような内容」の事柄を伝えたのか。

「いつ」日本に来たのかということについては三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(1933、同頒布刊行会)が「明治2年6月なりと云ふ」と記し、「どれくらいの期間」滞在したかについては川田久長『活版印刷史』(1949、印刷学会出版部)が「長くても2週間を超えない程度の短いものであったらしい」と記している。

このガンブルの日本滞在に関する記述は、十分な裏付を確認できないまま1980年代まで通用してきた。

この認識を改める、ガンブル来日当時に記された資料を日本で初めて(そして印刷史研究の文脈では中国でも初めて)示したのが、1985年7月の『図書』431号に掲載された矢作勝美「わが国活版印刷史の新資料」である。そこには、往時の上海でのキリスト教関連情報等を記した『教会新報』という新資料発見に至る簡単な経緯と、

  1. ガンブルの来日が『教会新報』1869(明治2)年9月11日付第52号に「11月頃日本の長崎に到着」して「4ヶ月滞在」する予定だと書かれていること
  2. ガンブルが上海からアメリカへ帰国する途中で日本に立ち寄ることを示す漢詩が『教会新報』1869(明治2)年12月2日付第55号に掲載されていること
  3. 『教会新報』1870(明治3)年8月13日付第98号に記された漢詩には、ガンブルは1969年秋から半年ほど日本に滞在したと詠まれていること

――が書かれている。

このレポートは矢作氏自身の手によって論文形式に書き改められて『出版研究』16号(1986年3月、講談社)に「明確になった活版印刷の源流」と題して掲出され、後に矢作勝美『活字=表現・記録・伝達する』(1986、出版ニュース社)へ収録されている。「明確になった活版印刷の源流」の末尾には1985年9月22日に脱稿したと記されているので、この論文の執筆中に、最もコアな要素をダイジェストして『図書』431号で紹介した――と考えるのが自然だろうかと思うが、ともあれ我々読者にとっては、新資料の存在を最初に教えられたのは『図書』431号の方である*1

ガンブルが「どのような内容」を伝えたのかということの概要を記した日本の公文書である「長崎製鉄所付属新聞局ノ活字器械処分」(明治3年11月20日長崎県申立、辨官宛)――長崎県が製鉄所付属新聞局の活版印刷機材の取扱について太政官に伺いを立てたもの――を紹介する「ウイリアム・ガンブルの来日を記録した公文書」は『活字=表現・記録・伝達する』での新稿。

現在は国立公文書館デジタルアーカイブで、太政類典・第一編・慶応三年〜明治四年・第五巻から「長崎製鉄所付属新聞局ノ活字器械処分」を閲覧することができる。


さて、横浜開港資料館で開催された平成30年度企画展「金属活字と明治の横浜」の準備期間中、この企画の担い手であった同館の石崎康子氏によって、ウィリアム・ガンブルの来日と離日に関する新しい資料の存在が確認された。

開港資料館の館報『開港のひろば』138号(2017年10月)に掲載された「新聞の出入港船リストから分かること~ウィリアム・ギャンブルの場合~」に報告がある。『ノース・チャイナ・ヘラルド』(The North China Herald)紙や『長崎エクスプレス』(The Nagasaki Express)紙に掲載された出入港船リストによって、次のことが判明したという。

  1. NCヘラルドの1869年10月前後の出入港船リストにはGambleの名を見つけることができなかった
  2. NCヘラルドの1870年4月12日号に掲載されたリストによるとGambleはキャディス号(Cadiz)に乗って長崎から上海に戻っている(上海到着が4月5日から12日の間と推定される)
  3. 長崎エクスプレス1870年4月2日号の出入港船リストによるとGambleが乗ったキャディス号は横浜から神戸を経て4月1日に長崎へ入港し同2日に上海へ向けて出港している

ガンブルによる伝習期間がいつまでか(3月末日なのかどうか)は正確には判らないが、いつ日本を離れて上海へ戻ったかということについては情報が確定したといってよいだろう。

また石崎氏は、アメリカ議会図書館のWilliam Gambleコレクションから、長崎で撮影されたものと推定されるガンブルの肖像や伝習関係者らと共に写された集合写真を発見されていて、『開港のひろば』140号(2018年4月)で報告されている。

出入港船リストの話題を記した『開港のひろば』138号と、ガンブル肖像を紹介する140号の話題に、明治初期の横浜で刷られた印刷物に用いられている活字に見られる美華書館の影響に関する話題を加えた石崎康子「ウィリアム・ギャンブルと横浜」という記事が、先般『書物学』第15号(2019年4月、勉誠出版asin:9784585207153)に掲載された。


「金属活字と近代」特集号である『書物学』第15号には、宮坂弥代生「近代日本の印刷業誕生前史――ガンブルの講習と二つのミッションプレス」という記事も掲載されている。

ガンブル自身が長崎での伝習活動について書き残していた新発見資料を紹介しつつ、美華書館・墨海書館という2つのMission Press(伝道団印刷所)の活動を概観するものだ。

ガンブルの伝習活動に関する新発見資料のひとつは、『The Chinese Recorder and Missionary Journal』Vol.2 No.11, April 1870の316頁に掲載された、ガンブルがChinese Recorder編集長あてで記した「LETTER FROM JAPAN」。冒頭に「I have been engaged since the 1st of December in fitting up a type foundry and printing office for the Japanese Authorities of this place.」と書かれており、伝習が1869年12月1日に始まったことが判る。

もうひとつは、Chinese Recorderの同じ号、307-308頁に掲載された、長崎の英国領事アンズリー宛ガンブル書簡。「PRESECUTIONS OF CHRISTIANS IN JAPAN」(日本におけるキリスト教迫害)と題されたこの1870年1月12日付書簡には、ガンブルが「浦上へ行き、日本人のキリスト教徒と言葉を交わした」ことも記されているという。活版印刷の伝習所に籠もりきりだったわけではないようだ。


こうして、William Gambleがいつからいつまで長崎に滞在していたかということをほぼ確定させるに至った各位の地味な調査に、改めて深い敬意を捧げたい。

*1:小宮山博史和文活字書体史研究の現状と問題点」(2010年『デザイン学研究』17巻2号、https://doi.org/10.11247/jssds.17.2_42)も、矢作による『教会新報』の紹介を『図書』における「わが国活版印刷史の新資料」としている。

築地ベントン活字その他

2015年に刊行された『タイポグラフィ学会誌』08号に掲載された研究ノート「大正・昭和期の築地系本文活字書体」の段階で「今後の課題」としていたことに関連して幾つか調査が進みつつあることについて、ツイッター等で書き散らしてきた事柄を、中間報告としてここにまとめて残しておく。

東京築地活版製造所のベントン活字

印刷雑誌昭和8年5月号の雑報欄(60頁)に掲載された「築地活版の細形九ポ」という記事が矢作勝美『明朝活字の美しさ』251頁に抜粋紹介されているのだが、ここに全文を掲げておこう(漢字は新字体に改めた)。

京橋区築地、東京築地活版製造所は、近来小型活字の字体の華奢なるものが多く愛好さるゝ傾向にある点に鑑みて三四年以来細形九ポイント活字の新刻に努力中であつたが、こゝに約八千五百の字数を完成し広く発売することゝなつた。本活字書体は、本号広告欄に掲載の通り従来の築地型と秀英型の各特長を取入れた優美温厚な風格のもの。同社では、更に平仮名につき一段の改良を加ふるため、ベントン彫刻機により再刻中であるが、本活字普及のため、此際実費鋳込替の需めに応ずる筈である。

タイポグラフィ学会誌』08号刊行後に印刷博物館が所蔵していると判明し閲覧させていただくことができた『昭和11年1月 細形九ポ活字総数見本 全』(資料番号58882)の平仮名と、いま手元にある東京築地活版製造所『昭和11年5月 改正五号活字総数見本全』http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/Tsukiji-5go-S11-Specimenbook.htmlを比べてみると、全字種が同一縮尺で骨格一致の状態なので、これはつまり「ベントン彫刻機により再刻」された結果、昭和11年見本帳の五号と9ポ(の少なくとも平仮名)が同一の原字パターンに基づいて制作されたものだと考えて良いだろう。

小宮山博史コレクションの昭和4年版9ポイント総数見本の書風は印刷図書館所蔵の明治39年版9ポイント総数見本を受け継ぐ(仮称)「築地電胎9ポ」型であり、また「大正・昭和期の築地系本文活字書体」にも記した通り昭和7年初版発行の中村達太郎『給水給湯及消火設備』などに新しい書風の9ポイント活字が使われていることが観察されているから、昭和4年以降新しい書風の本文活字開発に注力していたという記述(「三四年以来細形九ポイント活字の新刻に努力中」)に間違いは無さそうだ。

今井直一が(築地活版はベントン彫刻機を用いて)「解散するまで、かなや数字を彫刻した」と書いているのは故なきことではない。「かなや数字を彫刻したのみで、明朝漢字には成功しなかったようである」かどうかは、ふたつの昭和11年見本帳によって、もう少し追試を試みたい。

全ての漢字を対象にしなくとも、小宮山博史明朝体、日本への伝播と改刻」〈『本と活字の歴史事典』〉344-347頁に掲出されている比較対照用216字から20字程度を選んで比べてみようじゃないか――と思っていながらも、なかなか手をつけることができないまま、2年以上経過してしまった。

二瓶義三郎の凸版ベントン仮名

凸版印刷オリジナルの明朝体は、「そ・さ・き」を特徴と言うために昭和30年代が出発点に置かれている。これは凸版印刷が(二瓶義三郎を担い手として)自社開発した本文用活字書体という視点で見ると初代ウルトラマンのマスクで言う「C型」に相当し、〈二瓶氏の書体〉の使用開始時期、つまり初代ウルトラマンのマスクで言う「A型」の登場は、昭和21年だと思っている。2018年に連続セミナー「タイポグラフィの世界」シリーズ6「金属活字考」の、「日本語活字を読み込む」で配布した資料に掲示したものを、一部、再掲してみよう。

凸版印刷は築地活版が上述の「ベントン」世代の活字を使い始めて以降も従来型である築地電胎系の活字書体を使い続けていた。『文藝春秋』の本文においても同様で、昭和21年8月号までは下図の通り8ポも9ポも築地電胎系で印刷されている。

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文藝春秋』昭和21年8月号の本文活字(築地電胎系)

これが、『文藝春秋』昭和21年9月号から、仮名書体が最も初期の〈二瓶氏の書体〉と言うべきものに切り替わる。

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文藝春秋』昭和21年9月号の本文活字(最初期の二瓶=凸版書体)

ちなみに漢字については11月号から「人」などに改刻があるように見えるが、詳細には調べていない。

文藝春秋』の昭和23年の号には9ポイント活字の用例が見えないので8ポ以外の展開状況が十分には分かっていないが、昭和24年4月号から、9ポおよび10ポも、この最初期の二瓶=凸版書体になっており、また同8月号から、12ポもこの書体に切り替わっている。

このまま『文藝春秋』の観察を続けていくと、昭和32年4月号までは最初期二瓶系のままだが、5月号から8ポのみ「な」の字がイワタオールド風になるなど一部の仮名でデザイン変更が施されている。仮にこれを「二瓶系B型書体」と呼んでおこう。

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文藝春秋昭和32年5月号の8ポ活字(二瓶系B型書体)

文藝春秋』では、昭和34年12月号まで、8ポがこの「二瓶系B型書体」で、9ポなど他のサイズは最初期のもの(仮に「二瓶系A型書体」と呼ぶ)のままである。

そして、昭和35年1月号から、「き」「さ」などの脈絡を取り去った「新二瓶系」に切り替わるのだが、8ポは「二瓶系B型」をベースにして「そ」「き」「さ」に手を入れたもの、9ポなど他のサイズは「二瓶系A型」をベースにして「そ」「き」「さ」に手をいれたものとなっている。

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文藝春秋昭和35年1月号の「新二瓶系」凸版書体

こうして、1971-73年(昭和46-48年)頃に刊行されたものと推定される凸版印刷組版ハンドブック』(印刷博物館蔵)の8ポと9ポの違いが生じていて、昭和40年頃に凸版が印刷した〈本文が8ポじゃない本〉を見ると「凸版書体風なのにどこか見慣れない感じ」に見えることとなった。ベントン活字なのに。

ちなみに昭和21年というのは凸版印刷が解散の危機を迎えていたような時期であり、新書体の開発に注力できる状況では無かったのではないかと思われる。凸版印刷に並ぶ大印刷会社である大日本印刷によるベントン活字書体自社開発の記録である昭和26年の『技術月報』が片塩二朗『秀英体研究』598-606頁に紹介されていて、その「年譜」によるとベントンそれ自体の運用方法など基礎的な準備に2年を要し、以降昭和23年11月の最初の試刻から「かな書体検討」「試刻漢字検討」等を経て活字書体の決定までに更に1年半、最終的に「8P彫刻完成(鋳込完了とともに実用化す)」が昭和26年9月とされている*1。つまり、大日本印刷では実質的な新活字開発のスタートから開発完了まで、ほぼ丸3年が必要だったわけだ。

佐藤敬之補による覚書を眺めつつ、二瓶義三郎氏は築地活版のベントン活字開発最終盤まで在籍し続けていてその経験と「やり残した宿題」を抱えて昭和13年に(築地活版の解散により)凸版印刷へと移籍したのではないか、そして戦時下の凸版印刷で新書体の開発を黙々と続けていたのではないか――と想像しているのだが、確認することができていない。

印刷局による康煕字典体ベントン活字など

印刷局五十年略史』などには、明治45年にアメリカから活字母型彫刻機を導入して「康煕字典の文字を写真により縮写した」「字画正確書体鮮明」な「9ポイント活字」を作成したと書かれており、『印刷局長年報書』などが大正8年1月4日付の出来事として官報の活字を従来の五号活字から康煕字典に基づく9ポイント活字に切り替えたと記している

国会図書館デジタルコレクションで大正7〜8年の官報等を確認していくと、号外を含めて官報の体裁が変わるタイミングは大正7年12月27日付「衆議院第41回本会議第1号」からだったということが2SC1815J氏によってつきとめられていて、よく見るとこれが印刷局による康煕字典体(9ポイント)ベントン活字の初出用例となるようだ。

印刷局「五十年略史」や「七十年史」などが「康煕字典の文字を写真により縮写した」とだけ簡単に記している康煕字典体活字のベントン原字作成について、『印刷局研究所調査報告』第12号32頁が、原字作成のため写真撮影により36倍に拡大した康煕字典の漢字の輪郭を「紙の裏から鉛筆でなぞる」手法だった従来の工程を大正3年9月から「透過性のある紙を作成し表からなぞる」手法に切り替えた――と、少し詳しく記している。今のところ、更に詳しく記録した資料を見つけ出すことは出来ていない。

印刷局でのベントン活字開発を主導した小山初太郎が「明治40年(1907)に欧米視察へ旅立ち、そのとき米国活字鋳造会社においてベントン母型彫刻機の実習を受けて帰国した」と矢作『明朝活字の美しさ』237頁に記されている件について、直接的な典拠はまだ発見できていないのだが、明治40年度の事績を記す『印刷局第34回年報書』には記載が見えない小山らの外遊に関して大正6年の『印刷局沿革追録』には明治40年4月9日に小山初太郎と矢野道也が「印刷事業調査ノ為欧米各国ヘ出張ヲ命セラ」れたこと、そして翌41年2月17日に「欧米各国ヘ出張ヲ命セラレタル活版部長技師小山初太郎製肉課長技師矢野道也帰朝ス」との記述があることから、「欧米各国」へ9~10か月ほど出張していたことは間違いないものと思われる。

*1:中央公論』での観察によると昭和25年3月号までが旧8ポ仮名で、同4月号から新8ポ仮名が使用されており、また11月号までは旧活字の漢字、12月号から新活字の漢字に切り替わっているようだ。これは編集部の了解の元に実施された「本番テスト」だろうか。

府川充男氏日下潤一氏旧蔵活字追加

以前、日下潤一さんの事務所でゲラ盆2枚に収納されていた府川充男氏日下潤一氏旧蔵ひらがなカタカナ活字4種をお送りいただいて整理してみた際に、ひらがなカタカナのセットとしては一部に不足の文字種があると見ていたのだけれども。

その後ゲラ盆とは別のところから活字の入った箱が見つかったという連絡を頂戴し、「明朝体の教室」第4回を聴講するため上京した際に日下さんの事務所へ寄らせていただき、追加の資料を受け取ってきていた。これをようやく整理したので、内容を記しておく。

その1、津田三省堂系初号宋朝体(長宋体)

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津田三省堂系初号宋朝体活字

前回見当たらなかった「ポ」「ヽ」「ヾ」「ー」と「年」「月」「日」、そして漢数字が追加になった。

その2、江川活版製造所系三号行書ひらがなカタカナ

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江川活版製造所系三号行書ひらがな活字

前回見当たらなかった、濁音つき・半濁音つきの平仮名が、大幅に増えた。

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江川活版製造所系三号行書カタカナ活字

前回から「ヴ」「ー」が増えており、平仮名を整理したことと併せて若干並び順を変えた。

その3、津田三省堂系二号宋朝体(長宋体)ひらがなカタカナ

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津田三省堂系二号宋朝体ひらがなカタカナ活字

前回多くの文字種が欠けていたけれども、ひらがなカタカナが一式揃ったものと思われる。


さて、以上が前回お送りいただいていた活字書体への追加分で、ここからは新出の活字になる。

その4、一号太仮名(アンチック)

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一号太仮名(アンチック)

カタカナは一通り揃っているが、ひらがなは揃っていない。

その5、二号太仮名(アンチック)

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二号太仮名(アンチック)

カタカナは一通り揃っているが、ひらがなは揃っていない。

この一号・二号太仮名(アンチック)については、買い揃えることができなかったという話を府川さんが何かで書いていらしたように思うのだけれども、その文を探し出すことが出来ないでいる。

その6、年賀系初号活字4種

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年賀系初号活字4種

小宮山博史府川充男・小池和夫『真性活字中毒者読本』冒頭に掲げられている「初号年賀文字」の「雪型」と「松竹梅型」の他、江川行書、そしておそらく「笹字型」と呼ばれるものの、都合4種類。

府川さんと日下さんが共同購入して日下さんが事務所で保管して来られた活字は、以上になる模様。

栃木縣地租改正報告(明治9年第4号)に見られる「磽确」の太字っぷりが気にかかる

ネットオークションに出ていた『栃木縣地租改正報告』(明治8年第1号~明治9年第4号合綴)を入手した。出品時の内容見本写真に、とても気になる箇所があったためだ。

手元に届いたものをスキャンした画像を示す。

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栃木縣地租改正報告(明治9年第4号)一丁(全体図)

オークションで掲載されていた画像でも、今回スキャンした1つ目の画像のように「磽确」の字が他の本文活字(築地体前期五号)よりも明らかに太字――後の角ゴシックに繋がるような繋がらないような――であることが読み取れたので、和文ゴシック体の発生に強い関心を持っている自分としては絶対に現物を見る必要がある、と判断した。

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栃木縣地租改正報告(明治9年第4号)一丁より「磽确」の部分

前掲画像の2点目は、A4ブックエッジスキャナFB2280Eによる600dpiでのスキャン画像原寸。参考に、Olympus TG-5の顕微鏡モードで撮影した画像も続けて以下に掲げておこう(2.0倍と4.0倍)。

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栃木縣地租改正報告(明治9年第4号)一丁より「磽确」の接写(TG-5、2.0倍)

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栃木縣地租改正報告(明治9年第4号)一丁より「磽」の接写(TG-5、4.0倍)

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栃木縣地租改正報告(明治9年第4号)一丁より「确」の接写(TG-5、4.0倍)

おそらく鋳造活字ではなく木か金属の彫刻活字なのだろうとは思うものの、正体はよく判らない。明朝活字の書体と異なる書風であるのは、故意なのか、このようにしか彫れなかっただけなのか。栃木縣地租改正報告を手掛けた印刷者が彫ったものなのか、築地活版(平野活版)に注文して作らせたものなのか。この資料にしか見られない孤立用例なのか、あるいは同時期に他県でも作成されていた地租改正報告に類似または同一の用例が見つかるものなのか。

はてさてふむ……

John C. Tarr「Measurement of Type」メモ

2018年の11月に「世界史の中の和文号数活字史」を脱稿し、我ながら今更かよと思いつつ歴史活字サイズの取扱について英語圏のbibliographerが積み重ねてきた議論を再確認してみているシリーズ。

今回は、Monotype社のType Drawing Dept.のDirectorだったJohn C. Tarrが『The Library』(1946-47年s5-I巻3-4号)に寄稿した2ページのレター「Measurement of Type」についてのメモ。

Philip Gaskell「Type Sizes in the Eighteenth Century」(1952-53)や、John Richardson Jr.「Correlated Type Sizes and Names for the Fifteenth through Twentieth Century」(1990)から、面白い(大事な)提案をしようとしていることは判るんだけど数字の扱いがねぇ……と言われてしまっていたものだ。

『The Library』s5-I巻3-4号249ページに掲げられている〈Tarr表〉は、次のようになっている(部分)。

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Tarr「Measurement of Type」の表(『The Library』s5-I巻3-4号249頁)より

パっと見て気になるのは、20行高を「Points」に換算した値の有効桁数の扱いは大丈夫なのか?というところ。

Tarrによる〈数字の扱い〉について表計算ソフトで検証してみると:

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Tarr「Measurement of Type」の表を検証

――いきなり20行高「49mm」から「1行あたりインチ」への換算を誤っている(そのためポイント換算も誤っている)だけでなく、「1行あたりインチ」からAnglo-American Pointへの換算においても、Tarr自身が本文に記した「one point = .138"」で計算しているところと、より適切な換算単位である「1アメリカン・ポイント≒0.1383インチ」で計算しているところが入り混じっているようだ。

これではTarr表は役立たずと言われてしまってもしょうがない。

せっかく、John C. Tarr『PRINTING TO-DAY』(Oxford University press 1944〈revised 1949〉)ではtypographical pointは0.1383インチまたは約72分の1インチだと書いているというのに……

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Tarr『PRINTING TO-DAY』(1949)「Type and Type casting」の項冒頭

勉誠出版『書物学』第15巻「特集◉金属活字と近代」に「世界史の中の和文号数活字史」という記事を書きました

勉誠出版から2019年4月30日付で刊行される(された)、『書物学』第15巻「特集◉金属活字と近代」に、「世界史の中の和文号数活字史」という記事を書きました。

書物学 第15巻  金属活字と近代

書物学 第15巻  金属活字と近代

特集記事の執筆者とタイトル、そして(「立ち読み版」で確認できる)リード文を掲載順に掲げておきます。

明朝体活字はヨーロッパの東洋学の進展と清国へのキリスト教布教活動が動輪となって開発された。東洋学には対訳辞書の編纂が必要であり、布教には漢訳聖書の出版が不可欠であった。彼らが選んだ書体は伝統的な楷書体ではなく、明代に始まった木版印刷用書体である明朝体であった。

  • 石崎康子「ウィリアム・ギャンブルと横浜」

ウィリアム・ギャンブル(William Gamble、1830-1886)は、1869年11月に来日し、我が国に活字鋳造技術と西洋式活版印刷術を伝えた。その技術は翌年、横浜に伝えられ、その年の年末には活版印刷による日本最初の日刊日本語新聞が刊行された。そして明治初頭、横浜で刊行された印刷物には、美華書館由来の活字を見ることができる。

  • 宮坂弥代生「近代日本の印刷業誕生前史 ガンブルの講習と二つのミッションプレス」

西洋式の金属活字は上海からやってきた。日本語の組み版に使われる活字とその印刷にかかる技術は、キリスト教宣教師が中国に開設した印刷所をへて日本にもたらされたのである。その印刷所と技術移転はどのようなものだったのか。

  • 蘇精「美華書館二号(ベルリン)活字の起源と発展」

美華書館活字販売広告に見られる6サイズの中文活字の開発は欧米人の苦闘の結果であった。本論ではそれら中文活字の開発の起源と発展過程を明らかにし、そのなかでもベルリン二号活字開発の経緯についてギュツラフとの関係を詳細に検討する。

  • 内田明「世界史の中の和文号数活字史」

明治十年代、産業化に成功しつつあった日本の活版印刷事業者が手本とした英米では、活字規格がまだ全国規模では標準化されていなかった。開発の背景が異なる大小様々な欧米系漢字活字群をひとまとめに導入した明治2年の長崎で始まった近代日本語活字が「号数活字」として体系化される過程は、単純な一本道ではなかった。


この特集記事は、ちょうど1年前の今日から7月にかけて横浜開港資料館で開催された企画展「金属活字と明治の横浜」を受けたものです。蘇精先生の記事は、2018年9月に開催された連続セミナー「タイポグラフィの世界」http://www.visions.jp/b-typography/ 特別企画〈東アジアの漢字書体、その現在と未来〉での講演「上海美華書館二号ベルリン製明朝体」の記録になりますが、特集の流れに関係が深く、かつ広く読まれるべきものなので、ここに加わっています。

内田「世界史の中の和文号数活字史」は、2016年10月に仙台卸町TRUNK「あなたの知らない世界 vol.9:めくるめく近代日本語活字の世界」でお話させていただいたところから、――

――2016年12月「立命館明治大正文化研究会」での「近代日本の活字サイズ ―活字規格の歴史性(付・近代書誌と活字研究)」に基づく『近代文献調査研究論集 第二輯』を経て――

――せんだいメディアテーク地下活版印刷工房での1年間の活動を経て「イマココ」という感じのことを短い字数の中に詰め込んだものになっています。

ご高覧とご批正のほど、よろしくお願いいたします。